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仙台高等裁判所 昭和48年(く)5号 決定 1976年10月30日

再審請求人 米谷四郎

抗告申立人 弁護人 津田騰三 外五名

主文

原決定を取消す。

本件について青森地方裁判所の再審を開始する。

理由

目次

第一  再審請求に至る経緯等

一  再審請求に至る経緯

二  再審請求理由

第二  原決定と本件抗告理由

一  原決定

二  本件抗告理由

第三  当裁判所の判断のはじめに

第四  原判決

第五  証拠の新規性

第六  遺留精液斑の血液型判定

第七  共同墓地からの犯人目撃の能否

第八  芳春および請求人の自白の信用性

第九  芳春に対する起訴状

第一〇  結論

(略語例)

本決定で用いる略語の一部を左に列記する。

(記録)

原審取寄にかかる長内芳春に対する東京地方裁判所昭和四二年(合わ)第五七号強盗殺人、強盗強姦未遂被告事件の記録(一八冊、ほかに総目録一冊)を「東地」

同取寄にかかる右事件の第二審(東京高等裁判所昭和四三年(う)第一七九二号)の記録(三冊)を「東高」(なお、「東地」二の一、二冊は、本件再審請求にかかる確定判決事件記録であるが、同事件第二審の仙台高等裁判所-以下「原第二審」という。-の記録は、右「東地」二の二冊中に、同事件第一審の青森地方裁判所-以下「原第一審」という。-の記録と合綴され、かつこれとは別個に丁数が付されているので、右第二審記録を「東地二の二原第二審」として表わす。)

本件再審請求事件の原審(青森地方裁判所昭和四二年(た)第一号)記録(五冊)および当審記録(二冊、ほかに参考資料一冊)の全体を通じて単に「記録」(したがつて「記録」六冊、七冊は、それぞれ当審記録第一冊、第二冊にあたる。)

として表わす。

(証拠)

鑑定人赤石英作成の

昭和二七年三月五日付鑑定書(東地二の一-五九以下。原決定書添付別紙三参照)を「赤石第一鑑定書」

同月一一日付鑑定書(同-三九以下。原決定書添付別紙四参照)を「赤石第二鑑定書」

同月二〇日付鑑定書(同-六二以下。原決定書添付別紙五参照)を「赤石第三鑑定書」

昭和二八年七月二七日受付の鑑定書(東地二の二原第二審一一八以下。原決定書添付別紙六参照)を「赤石第四鑑定書」

昭和四一年一二月一六日付鑑定書(東地二の六-二五以下。記録一-一一以下はその写。)を「赤石第五鑑定書」

赤石英の

原第一審第三回公判(昭和二七年七月一八日)における証言(東地二の二-三八二以下)を「赤石第一供述」

同第六回公判(同年一一月一七日)における証言(同-五七七以下)を「赤石第二供述」

原第二審第六回公判(昭和二八年七月二五日)における証言(東地二の二原第二審一〇四以下)を「赤石第三供述」

東京地裁第八回公判(昭和四二年一〇月一二日)における証言(東地一の四-一四八以下)を「赤石第四供述」

東京高裁尋問期日(昭和四四年四月二三日)における証言(東高二-四九四以下)を「赤石第五供述」

原審尋問期日(同年八月二八日)における証言(記録二-五一六以下)を「赤石第六供述」

当審尋問期日(昭和五〇年三月五日)における証言(記録六-一九三七以下)を「赤石第七供述」

同尋問期日(同年六月二五日)における証言(同-一九八八以下)を「赤石第八供述」

鑑定人上野正吉作成の

昭和四二年二月三日付鑑定書(東地二の六-四〇以下。記録一-二六六以下はその写)を「上野第一鑑定書」

昭和四三年一〇月二二日付鑑定書(東高二-二八二以下。記録二-七三六以下はその写)を「上野第二鑑定書」

昭和四七年一二月一〇日付鑑定書(記録四-一三一五以下)を「上野第三鑑定書」

上野正吉の

東京地裁第九回公判(昭和四二年一〇月二七日)における証言(東地一の四-二二六以下)を「上野第一供述」東京高裁第二回公判(昭和四四年二月二四日)における証言(東高二-二六八以下)を「上野第二供述」

同第三回公判(同年三月三日)における証言(同-三四七以下)を「上野第三供述」

原審尋問期日(同年一〇月二五日)における証言(記録三-七八六以下)を「上野第四供述」

当審尋問期日(昭和四九年一二月四日)における証言(記録六-一八二六以下)を「上野第五供述」鑑定人山沢吉平作成の

昭和四三年一〇月二五日付鑑定書(東高二-三三二以下)を「山沢第一鑑定書」

昭和四九年八月三一日付鑑定書(記録六-一七六六以下)を「山沢第二鑑定書」

山沢吉平の

東京高裁第二回公判(昭和四四年二月二四日)における証言(東高二-二七九以下)を「山沢第一供述」

同第四回公判(同年三月一七日)における証言(同-四二四以下)を「山沢第二供述」

当審尋問期日(昭和四九年一二月四日)における証言(記録六-一八八八以下)を「山沢第三供述」

鑑定人古田莞爾作成の昭和四五年二月八日付鑑定書(東高三-七四七以下)を「古田鑑定書」

同人の原審尋問期日(昭和四七年一〇月五日)における証言(記録四-一〇四三以下)を「古田供述」

鑑定人村上利作成の昭和四三年七月一九日付鑑定書写(東高三-七一一以下)を「村上鑑定書」

同人の東京高裁尋問期日(昭和四四年四月二四日)における証言(同-六六七以下)を「村上供述」

鑑定人菊池哲作成の昭和四一年五月一七日付鑑定書(東地二の六-八三以下。記録一-三〇八以下はその写)を「菊池鑑定書」

原第一審が

(1)  昭和二七年六月一七日青森県東津軽郡高田村大字小館字桜苅所在共同墓地およびその付近につき実施した検証の調書(東地二の一-一五六以下の「検証並証人尋問」調書中の検証部分。同-一七四以下)を「原第一審検証調書(一)」

(2)  右同日に右同所一六四番地川村すな方およびその付近につき実施した検証の調書(同-一七八以下の「検証および証人尋問調書」中の検証部分。同-一七八以下)を「原第一審検証調書(二)」

(3)  同年一〇月二一日に前記共同墓地内から同墓地北側路上の歩行者に対する目撃の能否を実験した検証の調書(東地二の二-五五〇以下)を「原第一審検証調書(三)」

原第二審が昭和二八年四月二日に実施した検証の調書(東地二の二原第二審六九以下)を「原第二審検証調書」

東京地裁が昭和四二年八月二二日に実施した検証の調書(東地一の二-二以下)を「東京地裁検証調書」

東京高裁が昭和四四年二月一七日に実施した検証の調書(東高一-一九五以下。記録三-九一〇以下はその写)を「東京高裁検証調書」

原審が昭和四六年二月二六日に実施した検証の調書(記録三-九七八以下)を「原審検証調書」として表わす。

第一再審請求に至る経緯等

原決定挙示(原決定書九丁)の関係各記録によれば、以下の事実が認められる。

一  再審請求に至る経緯

青森県東津軽郡高田村(現在青森市)大字小舘字桜苅一六四番地の住家において一人暮しの寡婦川村すな(明治二八年二月二一日生。本件当時五七年)が、昭和二七年二月二五日(当日は、同地方において旧暦二月一日に祝う三度目の正月で、三歳((さんとし))と呼ばれる日であつた。)夕刻から夜一〇時ころまでの間に何者かによつて殺害された。右事実は同女が普段のごとく布団をかぶつて寝ているように擬装されていたため、同部落に住み当夜一〇時ころに用心のため同女方に泊りに来ていた同女の甥長内義昭(当時一六年)に気付かれず、同人は同女の寝床の隣に、常日頃敷いたままにしてある自己の布団で就寝し、翌朝ようやくこれに気付いて、青森地区警察署の捜査が開始されたが、同女の頸部には明らかに絞頸による索溝が認められたほか、その着衣は甚しく乱れ、かつ腰巻や身体(下腹部等)に精液が付着していて、姦淫されたごとき形跡があつた。捜査の結果同年三月二日当時同部落内に居住し、板金工であつた請求人(当時三〇年)が容疑者として逮捕され、当初否認していた同人はやがて犯行を自供したが、その後再び否認し、否認のまま同月二三日青森地方裁判所(原第一審)に強姦致死、殺人罪で起訴され、公判においても否認を維持し、また請求人の妻雪枝や身内の者達が請求人の自宅におけるアリバイを証言したにも拘らず、原第一審は同年一二月五日殺人の点は殺意を認めるに足りる証拠がないが、強姦致死の事実は認められるとして(ただし、公訴事実において強姦は既遂とされていたが、認定は未遂であつた。)、懲役一〇年(未決勾留日数二〇〇日算入)の判決を言渡し、請求人はこれに対し控訴を申し立てたところ、仙台高等裁判所(原第二審)は、昭和二八年八月二二日控訴棄却(未決勾留日数二〇〇日算入)の判決をなし(同庁同年(う)第一号事件)、請求人において上告を断念し、原第一審の有罪判決が確定した。

請求人は昭和三三年二月一八日仮出獄により出所したが、その以前(昭和三二年五月二一日)に妻雪枝が死亡していたため、青森市古川に居住して板金工として働き、同三四年四月再婚し、一女を儲うけ、また住居地を肩書地に移した。

かくするうち義春こと長内芳春(昭和八年三月三日生、当時一八年。義昭の兄であり、父石蔵はすなの実弟にあたる。)が、昭和四二年二月二三日にすな殺害の真犯人として東京地方裁判所に、強盗殺人、強盗強姦未遂罪で起訴された(同庁同年(合わ)第五七号事件。以下同第一審を東京地裁という。)ことから、請求人は翌三月に日本弁護士連合会人権擁護委員会に自己の無実を晴らすための助力を申し出て、ここに同委員会所属弁護士により、同年八月二五日原審青森地方裁判所に本件再審請求がなされた。

ところが、芳春は本事件発生当時、父石蔵ら家族とともに、請求人が寄宿していた雪枝の実家の近隣に居住していたのであつて、右事件の捜査の際には、一応取調を受けたが、アリバイを認められていた。そして昭和四一年四月以降右東京地裁に対する起訴の直前までは、犯行を終始自供していたが、起訴直前に至つてにわかに否認供述をなし、公判においてもその否認を続けていたところ、芳春の捜査官に対する自供は信用性がないなどの理由により昭和四三年七月二日無罪判決を言渡され、これに対し、検察官が控訴し、東京高等裁判所において引き続き右事件を審理中(同庁同年(う)第一七九二号事件。以下同控訴審を東京高裁という。)、昭和四五年五月五日自殺を遂げ、ここに右事件は同月二九日公訴棄却の決定をもつて終結した。

二  再審請求理由

再審請求の理由は原決定書(二丁表)に記載の弁護人津田騰三ら作成の再審請求書等に記載のとおりであるが、要するに左記のような刑訴法四三五条六号所定の請求人に対し無罪を言渡すべき明らかな証拠をあらたに発見したというのである。すなわち、

1  東京地方検察庁検察官山崎恒幸作成の昭和四二年二月二三日付芳春に対する起訴状

右起訴状は、東京地方検察庁検察官が芳春を本件の真犯人と判断し、東京地裁に強盗殺人、強盗強姦未遂の罪名のもとに起訴したことを内容とするものである。

2(1)  芳春の司法警察員に対する昭和四一年四月八日付、同年五月一四日付各供述調書

(2)  同人作成の同年五月二四日付供述書

(3)  同人の検察官に対する同年五月三〇日付、同月三一日付(二通)、同年一一月一七日付各供述調書

(4)  東京地裁裁判官の同人に対する同四二年二月二二日付勾留質問調書

右(1) ないし(4) の各証拠は、芳春が司法警察員、検察官および勾留質問の裁判官に対し、川村すなに対する強盗殺人、強盗強姦未遂の犯行を自白したことを内容とするものである。

3(1)  赤石第五鑑定書

(2)  上野第一鑑定書

右各鑑定書は、すなの屍体に認められた顔面、頸部、胸部の各創傷の成傷原因ないし成傷用器および同女の屍体、着衣に付着していた犯人の精液からみた姦淫の証跡について、請求人の自白内容と芳春の自白内容とを比較すると、芳春の自白する加害手段ないし姦淫方法が請求人の自白するそれらよりも右各創傷の成傷原因および姦淫の証跡等のいずれとも適合することを内容とするものである。

4(1)  上野第二鑑定書

(2)  山沢第一鑑定書

右各鑑定書は、請求人の血液型はA型であるが非分泌型に属し、その精液あるいは唾液中にABO式の血液型の判定を可能ならしめる物質(「型物質」あるいは「抗原」と呼ばれるもの)が含まれているが、これが微量であることを内容とするものである。これによつて原第二審において取調べられた赤石第四鑑定書にいう「請求人の唾液はA型分泌型と認められる」との鑑定結果が誤りであることが明らかとなつた。他方、芳春の血液型はA型分泌型である(菊池鑑定書)。

5  東京高裁検証調書

原判決が本件すな絞殺事件の犯人を請求人であるとし、その犯行時刻が午後七時ころと認定するに当り、採用した証人柴田武良、同柴田フミ、同柴田公人、同柴田巖の各証人尋問調書およびこれらの各証人の指示による共同墓地付近における検証調書をみると、右武良らが右犯行時刻ころ右墓地内で、近くの道路を犯行現場の方向から歩いてくる請求人を目撃したというのであるが、東京高裁が芳春に対する控訴事件につき同四四年二月一七日施行の検証調書(東京高裁検証調書)は、本件発生日と近似した天象および気象下の午後七時ころの右共同墓地における明るさでは、人物の識別が不可能であることの実験結果を内容とするものであり、これによれば右各証人の供述が誤解であることが明らかである。

以上の、証拠はいずれも請求人の無実であることを証明する、というのである。

第二原決定と本件抗告理由

一  原決定

原決定は本件各新証拠はいずれも刑訴法四三五条六号所定の「あらたに発見した」(以下証拠の新規性という。)という要件を備えるが、「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」(以下証拠の明白性という。)という要件を欠くとして、本件再審請求を棄却しているところ、その判断の要旨は次のとおりである。

すなわち

(一)  芳春の捜査官および勾留質問の裁判官に対する自白(新証拠2の(1) ないし(4) )はその任意性を肯定できる。しかし犯行現場におけるすなの衣類の状況、犯行時刻、柴田武良らの目撃時刻等の諸点において、請求人の自供は関係証拠により認められる客観的事実と適合するのに対し、芳春のそれは適合せず、しかも芳春がすなのがま口から盗取したという金員の種別は、日本銀行発行前のものであつて、この点は全く事実に適合しない。またすなの屍体に認められた創傷に関しては、芳春の自供に不適合と断じうるものはないが、他方請求人の自供にも見方によつては事実にそぐわないと解される面が一部にある程度であつて全体としては十分首肯できる。さらに芳春には虚言を述べる資質が窺われること、請求人の捜査段階や公判における防禦の態度が消極的であることなどにかんがみると、結局、芳春の自供よりも請求人の自供に信を措かざるを得ない。

(二)  芳春に対する起訴状(新証拠1)は、その記載の公訴事実は、本来検察官の判断を表示したものに過ぎないのであるから、同事実についてなんら証拠価値を有するものではない。

(三)  赤石第五および上野第一各鑑定書(新証拠3の(1) 、(2) )は、芳春の供述に現われていない情況を想定し、さらには同供述を思いちがいとみることを仮定したうえでの説明が多く、しかも請求人の供述中、不適合とする点は、証拠とさして矛盾しない条件を仮定すると、適合性を回復するとみられるから、右各鑑定書は証拠の明白性を欠く。

(四)  上野第二および山沢第一各鑑定書(新証拠4の(1) 、(2) )にてらすと、原第二審判決が原判決の判断の裏打ちとした、請求人の唾液の血液型はA型の「分泌型」であるとする赤石第四鑑定書は採用できない。しかしすなの屍体および着衣に遺留された精液斑の量は到底微量というものではないのに、右上野第二および山沢第一各鑑定書は本件遺留精液斑の量をかなり少な目にみた事実認識の上に立つていると考えられることなどにてらすと、右各鑑定書は本件遺留精液斑を請求人のものとみることと格別矛盾しない。

(五)  原判決およびこれを維持した原第二審判決は、柴田武良らの請求人目撃時刻を昭和二七年二月二五日午後七時ころ(原判決)ないし同日午後六時五〇分ころ(原第二審判決)と認定しているところ、右目撃による識別の能否につき実験した東京高裁検証調書(新証拠5)は、前記共同墓地の入口から中へ一一・五一メートルおよびそれより更に四・二五メートル入つた両地点から、共同墓地入口に接する道路上の歩行者の識別の能否を実験した結果を記載したものであるところ、右検証調書によれば、実験開始時の昭和四四年二月一七日午後六時二八分より一〇分以内(日没後の経過時間においては、原判決および原第二審判決認定の目撃時刻とほぼ一致する。)においては、暗さのために歩行者を識別することが、付近住民の目をもつてしても容易でなかつたことが知られる。しかし証拠を検討すると、柴田公人、巖、大八の三名の目撃者は、右実験時の識別地点よりも遙かに識別が容易な位置にいたこと、また目撃時刻も、原判決および原第二審判決認定の時刻よりかなり早く、午後六時三〇分ころないし四〇分ころと認められるから、東京高裁検証調書は、柴田武良らの識別が不能ないし困難であつたことを裏付ける資料となるものではない。

二  本件抗告理由

本件抗告の理由は、請求人の弁護人津田騰三ら連名の即時抗告の申立と題する書面記載のとおりであり、要するに、本件各新証拠の明白性を否定した原決定には、再審法規の解釈適用を誤つたか、または証拠の取捨判断を誤つた違法がある、というのである。

第三当裁判所の判断のはじめに

当裁判所は関係各記録および証拠物等を精査した結果、本件抗告は、結局理由があり、原決定は取消を免れないものと判断する。その理由は第四以下に述べるとおりであるが、まずその検討に先立ち、証拠の明白性の基準および以下の検討の順序等につき述べれば、

(一)  証拠の明白性の存否は、当の証拠が有罪の確定判決における事実認定につき合理的な疑いを抱かせ、その認定を覆すに足りる蓋然性を有するか否か、別言すれば、当の証拠と他の全証拠とを総合的に評価して、もし当の証拠が有罪の確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたならば、合理的な疑いを生ぜしめることなくその確定判決における事実認定に到達したか否かの見地において判断されるべきものである(昭和四六年(し)第六七号昭和五〇年五月二〇日第一小法廷決定・刑集二九巻五号一七七頁以下参照)ところ、本件再審請求は、青森地方裁判所(原第一審)がなした原判決に対するものであるから、まず(1) 原判決の有罪判断の基礎となつた認定事実と挙示の証拠を検討し、次に(2) 弁護人らによつて新証拠として提出された証拠のみならず、本件再審請求の理由の存否に関連して、原審および当審に提出されたすべての証拠を検討しつつ、原決定の説示の当否を判断すべきである。

(二)  そこで原決定の判断の順序にならい、遺留精液斑の血液型判定、共同墓地からの犯人目撃の能否、芳春および請求人の自白の信用性、次いで芳春に対する起訴状の順に新証拠(証拠の新規性については後記第五)の明白性の存否について判断することとする。

第四原判決

原判決謄本(東地二の六-一以下。記録一-二八以下)および原第一審公判記録(東地二の一、二)によれば、

(一)  請求人に対する公訴事実の要旨は、請求人がすなに情交を迫つたが抵抗にあい、同女を殺害するに如かずと決意し、「両手にて紐様なものにて同女の頸部を絞め」て抵抗を抑圧し、「同女の陰部に陰茎を没入して性交を遂げ」たが、右頸部圧迫により同女を窒息死に至らしめた(強姦致死、殺人の観念的競合)というものであつたが、原判決は、殺人の点については殺意を認めるに足りる証拠はないと判断し、右公訴事実とも異る絞頸方法および姦淫の未遂を認定して、強姦致死の事実のみを有罪とした。すなわち

(二)(原判決認定事実)

原第一審認定の罪となるべき事実は、「被告人は昭和二七年二月二五日午後七時頃、青森県東津軽郡高田村大字小舘字桜苅一六四番地寡婦川村すな(明治二八年二月二一日生)方四畳半の間で同女と対談中俄に劣情を催し、同女に対し情交を迫つたが拒否されたため強いて同女を姦淫しようと決意し、いきなり手拳を以て同女の胸部を突きそのため同女が倒れると同女を隣室六畳間の寝床まで抱きかかえて仰向けに倒したが、尚抵抗するので同女の頸部を着衣(証第七号)の襟を両手で持つて絞めたところ力余つてその場で同女を窒息死に致らせ(姦淫自体は結局所期の目的を遂げず)たものである」。というものであり

(三)(証拠)

また、挙示の証拠の標目は次のとおりであつた(なお、便宣括弧内に証拠説明を略記する。)。

1  赤石第一鑑定書(請求人の血液の血液型はA型N型であると鑑定したもの)

2  赤石第二鑑定書(すなの死因、創傷の状況および成因、成傷用器、死亡推定時刻および屍体に付着の遺留精液斑の血液型等を鑑定したもの。なお遺留精液斑の血液型をA型と判定)

3  赤石第三鑑定書(すな着用の腰巻に付着の遺留精液斑の血液型等を鑑定したもの。遺留精液斑については右2と同様の判定)

4  赤石第一供述(毛布製上張り((証第七号))の襟の部分で圧迫することにより窒息死に至らしめ、かつすなの屍体の頸部に残された索溝を生ずる可能性があることなどを供述)

5  証人柴田武良、同柴田フミ、同柴田公人、同柴田巖、同柴田洋の各供述(原判決認定の犯行時刻ころに現場付近の共同墓地前で、あるいは当日午後六時過ころ長内石藏方塀前で請求人を目撃したことなどを供述)

6  請求人の司法警察員に対する第四回(ただし、第六項を除く)および検察官に対する第一回(ただし、第五項中二〇行目以下を除く)各供述調書(右除外した部分はいずれも姦淫の既遂、膣内射精などを供述した部分であるが、その余の部分は原判決認定事実にそう自供である。)

7  原第一審検証調書(一)および(二)(すな方住居、共同墓地および付近の検証の調書)

8  毛布製上張り(証第七号)(前記4の括弧内参照)、領置調書二通(赤石第三鑑定書の鑑定物件である腰巻等に関するもの)、すなの除籍謄本

以上のとおりである。

(四)(原判決について)

したがつて、原判決の事実認定の基礎は、請求人の自供、遺留精液斑と請求人の血液の各血液型がA型である点において一致したこと、柴田武良らが請求人を目撃したことの三点にあるが、犯人と請求人の血液型が分泌型・非分泌型(血液以外の体液中における血液型物質-抗原とも呼ばれる。-の分泌程度の差に基く血液型の分類で、その判定の対象においては、唾液、精液は同様に扱われる。赤石第三供述・東地二の二原第二審一〇五ないし一〇七裏参照)の点において一致するか否かは考慮されることがなかつた。

(五)(原第二審判決について)

しかるに原第二審判決謄本(東地二の六-四以下)および原第二審公判記録(東地二の二原第二審)によれば、原第二審においては、右各血液型が分泌型・非分泌型において一致するか否かの点のほか、柴田武良らの共同墓地における目撃の能否の点なども検討され(原第一審においても、右目撃能否の点は検討されたが、犯行当日と異なる天象気象条件のもとに検証が行なわれたため明確な結論は得られなかった。後記原第一審検証調書(三)の項参照)、右各血液型については、すなの腰巻付着の遺留精液斑はA型の分秘型であるという赤石第三供述と請求人の唾液の血液型は同じくA型の分秘型であると判定する赤石第四鑑定書が公判に顕われ、また右目撃の能否を実験するための検証を実施する(後記原第二審検証調書の項参照)などして、原判決維持の結論(ただし、原第二審は犯行時刻を原判決認定の午後七時ころより早め、午後六時五〇分前後と判断した。)に達したことが認められる。

第五証拠の新規性

弁護人が提出した前記第一、二記載の各証拠は、いずれも原判決確定以後に作成されたものであり、かつその内容等にてらし、あらたに発見されたものといえるから、いずれも証拠の新規性を認めるべきであり、これと同旨の原決定の判断(原決定書六丁表ないし七丁裏)は是認できる。

第六遺留精液斑の血液型判定

一  この点に関する新証拠の上野第二および山沢第一各鑑定書の明白性を否定した原決定の要旨は、次のとおりである(原決定書四二丁表ないし五八丁表)。すなわち

1  請求人の体液につきA型の非分秘型に属すると鑑定した上野第二および山沢第一各鑑定書の鑑定結果に疑問をさしはさむ余地はないから、請求人の唾液はA型の分秘型とした赤石第四鑑定書は請求人の唾液の血液型物質の量を検査したものとしては到底採用できない。

2  しかし一般に非分泌型に属するとされる者であつても、血液型物質は微量ながらも体液中に存在しているのであるから、本件においては、単に体液とりわけ精液中の血液型物質の量が請求人につき具体的にどの程度のものであるかを判定することが必要とされるに止まり、それが分泌型・非分泌型のいずれに分類されうるかどうかは、直接的な意味がないのであつて、本件遺留精液斑を請求人のものとみることに矛盾がないかどうかは、遺留精液斑につきこれをA型と判定した赤石第二、第三各鑑定書の結論を前提として、請求人の精液によつてA型と判定するに必要な程度の精液量がすなの屍体や着衣等に遺留されていたかどうかによつて判断すべきである。

3  すなの屍体およびその着衣に遺留された精液斑の量は、これを概略的なものにもせよ数値をもつて確定することは困難であるが、その個々の付着部分に、男性性器から直接射出され、ないし滴下した精液の少なくとも一滴(約〇・〇四ミリリツトルと解される。因に、二ミリグラムの精液斑は、約〇・〇一ないし〇・〇二ミリリツトルの精液量に相当する。)程度の量は優にあつたとみてよいであろう。そして右精液量は、赤石第二鑑定書の試験で使用されたものと同じ抗体価の血清〇・二ミリリツトルを用いた場合には、請求人の精液からA型を判定するには十分過ぎる量である。

4  ところで上野第二鑑定書では、「米谷四郎の精液が実際の事案における如く極めて少量にしか存在しないか、あるいはその他の人の体液と混在して発見される場合にあつては、これを普通常用の吸収試験法によりA型と判定される場合はむしろまれであろうと考える。」との鑑定主文が示され、また山沢第一鑑定書では、「米谷四郎の精液および唾液からA型と判定することは不可能ではないが、分泌型の人に比して非常に困難である。」との鑑定主文が示され、この両鑑定主文だけをみる限りにおいては、本件遺留精液斑が請求人のものである可能性の程度はかなり低いものと認めなければならないもののようにみえる。しかし右の各鑑定主文に至る説明として、上野第二鑑定書では、「実際の事案における如き少量の精液斑の場合にあつてはその検査からこれをA型と判定することは極めて容易であるとすることは妥当でないと考える。若しある実際事案においてその精液斑が何の問題もなく簡単に『A型』と判定されたとすれば、それはむしろ米谷に由来する精液でない可能性の方が大であるとしなければならぬ。」と解説され、また山沢第一鑑定書では、「米谷四郎の精液斑を用いて赤石鑑定(赤石第二鑑定書を指す。以下この引用部分において同じ。)の通りの成績を得るためには凝集素に加える精液斑の量は四平方センチメートル(約四ミリグラム)以上なくてはならない。赤石鑑定によると精液斑は恥骨縫合の上縁部に約二倍拇指頭大の広さに渉り薄く付着しており、又陰毛にも処々に固着していると記載されている。この二倍拇指頭大の面積は検査者により可成り差があるものであるが大略五平方センチメートル位であろう。従つて川村すなに認められた精液斑が米谷四郎のものとした場合にはその殆んど全量を用いなければ赤石鑑定の検査結果通りにならないこととなる。一般に精液斑、唾液斑に於て凝集素吸収試験を行う場合、凝集素に加える斑痕量はせいぜい多くても一ミリグラム前後(精液斑の面積にして一平方センチメートル位)である。一度に四~五ミリグラム(本件の場合略全量に当る)を使用することは再検査の必要もあるためにも行なわないのが普通である。そして一ミリグラム前後の使用量では米谷四郎の精液ではA型とは判定困難である。一方抗血清によつて抗A、抗B凝集素の吸着され易さに難易があり、赤石鑑定人が使つた抗血清との吸着され易さを比べることはむずかしい。これ等の点から推定するに赤石鑑定の精液斑は米谷四郎の精液斑であつても差支えないが、その可能性は低そうに思われる。」と解説されているのであつて、このことから右両鑑定主文は、いずれも本件遺留精液斑の量を、さきに判示したところよりはかなり少な目にみた事実認識の上に立つて導き出されたものであることが知られるのである。以上のように、上野第二、山沢第一各鑑定書は、本件遺留精液斑量について、さきに判断したところを前提として評価すると、本件遺留精液斑を請求人のものとみることと格別矛盾しないものと判断される。

というのである。

二  そこで考察すると、体液中に分泌されている血液型物質の有無またはその程度に基くいわゆる分泌型・非分泌型の区別は必ずしも絶対的なものではなく、また遺留精液斑の血液型(ABO式血液型)判定に普通用いられる定性的吸収試験(凝集素吸収試験)法においては、その判定対象である反応自体が検体精液の量および検査方法などによつて左右されることも、原審および当審における審理の過程において明らかにされたところである(赤石第五ないし第八、上野第三ないし第五、山沢第二、第三、村上各供述村上鑑定書中の説明等)。

右のような見地からすれば、本件においては請求人の体液、とくに精液が分泌型・非分泌型のいずれに分類されうるかどうかは直接的な意味はないとして上野第二、山沢第一各鑑定書(山沢第一供述参照)の明白性を否定した原審の判断は、請求人の血液型はA非分泌型であるとする右両鑑定書の判定結果をもつて、直ちに本件遺留精液斑の血液型(この血液型を鑑定した赤石第二、第三各鑑定書の試験法は、定性的吸収試験法である。赤石第七、第八、山沢第三各供述、記録六-一八九六、一九六七以下、一九九〇以下)と相異するという結論には到達し得ないとする限りにおいては、一応首肯できるものである。

しかし更に考察すると、右各鑑定書は単に請求人の血液型はA型の非分泌型であると判定するに止まらず、前記のように、「本件遺留精液斑が何の問題もなく簡単にA型と判定されたとすれば、それはむしろ米谷に由来する精液でない可能性の方が大である。」(上野第二鑑定書)、または「本件遺留精液斑は米谷四郎の精液斑であつても差支えないが、その可能性は低そうに思われる。」(山沢第一鑑定書)との判定をも示しているところ、関係証拠によつて認められる赤石第二、第三各鑑定書の鑑定当時における定性的吸収試験の技術(上野第三鑑定書七五、七六頁、上野第五供述記録六-一八三一裏以下等)、経験ある試験者が右試験において通常設定する検査条件(例えば、検体に関しては、試験者においてそれを一時に大量に使用することはなく、また通常、経験的に検体が分泌量の少い体液-非分泌型特性のもの-であつたならば判定が困難となり、分泌量の多い体液-分泌型特性のもの-であつたならば判定ができるような一定量を使用している。上野第五、山沢第三、赤石第三、第六、第八各供述記録六-一八四〇、一八五二裏、一八五七裏、一八五八、一八九六表裏、一九一九裏、東地二の二原第二審一〇六裏、一一四裏、一一五、記録二-六三三表裏、同六-一九九四裏ないし一九九六、二〇四五ないし二〇四六。なお上野第三鑑定書二四頁四一頁四四頁、山沢第二鑑定書六頁以下参照)等の諸事情に、更に右上野・山沢各鑑定人においては、遺留精液斑に対する右赤石各鑑定書の試験が定性的吸収試験であつて、定性定量的吸収試験(凝集阻止試験)でないなどの事情から遺留精液斑の分泌量を確定することには難点がある点(赤石第七、第八各供述記録六-一九四一以下、同-一九九〇裏以下)をも十分斟酌しているものであること(上野第二ないし第五、山沢第二、第三各供述東高二-二七四ないし二七七裏、三七〇表裏、三八〇ないし三八二、記録三-八五〇表裏、記録六-一八七四ないし一八七五裏、東高二-四二七表裏、四三〇、四三八裏、四五〇表裏、四五三、記録六-一九一一裏、一九一二、一九一九表裏、右上野・山沢各鑑定書および上野第三鑑定書中の説明)を合わせ考えると、右上野第二、山沢第一各鑑定書の判定は、経験的見地からの可能性を論じたものとしては、十分に首肯できるところである。

しかも原決定は、遺留精液斑が請求人のものと一致するかどうかをみるために、遣留精液斑の量が請求人の精液によりA型と判定するに必要な程度にあつたかどうかを検討したうえ、上野第二、山沢第一各鑑定書はいずれも遺留精液斑の量をかなり少な目にみていると批判しているが、右批判は、確証がないのに推測によつて算出した遺留精液斑の概括的数量などを根拠とするものであつて、客観性合理性を欠き、全く失当であるばかりでなく、赤石第二、第三各鑑定書の試験において用いた遺留精液斑の量自体がそもそも不明であるから(赤石第八供述記録六-二〇〇〇裏、二〇〇一等)、現場に遺留されていた精液量を検討することによつて、右各鑑定書の試験の反応結果を請求人の精液に由来するとみることに矛盾がないかどうかを判断することは不可能というほかはない。

これを要するに、後記のようにすべて明白性が認められる他の本件各新証拠と綜合考察するにあたつては、上野第二、山沢第一各鑑定書もまた、遺留精液斑と請求人との結び付きに疑問を投げかける新証拠として、その明白性を肯定するのが相当である。

第七共同墓地からの犯人目撃の能否

一  原決定は、東京高裁検証調書の検証結果は、柴田武良らによる対象者(請求人)の識別が不能ないし困難であつたことを裏付けるものではなく、かえつて識別が可能であつたことを推測させるもの、すなわち請求人の有罪の事実を証するもので、明白性の要件を欠くと説示しているが(原決定書五八丁表ないし七〇丁表)、右判断は到底是認することができない。以下にその理由を述べる(なお、原判決が挙示する証人柴田洋の目撃状況は、犯行当日の二月二五日午後六時過ころで、まだ同六時半までにはならないころ、里村商店の方向へいく請求人を長内石藏方塀前でみかけたというものである((東地二の一-一七二表裏、一七三裏、一七四))が、右供述の信用性は疑わしいばかりでなく、右目撃の時刻場所は共同墓地における右武良らの目撃のそれとは異るところであつて、以下に洋を除く右武良らの目撃につき検討する。)。

二  原決定の右判断の要旨は次のとおりである。すなわち

1  原判決(もしくは原第二審判決)は、犯行時刻を昭和二七年二月二五日午後七時ころ(原第二審判決は午後六時五〇分ころ)と認定し、柴田武良らはその認定の犯行時刻の直後ころにすな方付近の共同墓地内において、請求人が同墓地前道路をすな方の方向より歩いてくるのを目撃した、と判断したものと解される。

2  しかし関係各証拠によれば、柴田武良らの目撃時刻は午後六時三〇分ころないし四〇分ころであると認められる。

3  そして日没時刻からの経過時間を比較すると、右2の目撃時刻の方が東京高裁検証調書の識別実験開始時刻より六分ないし一六分間早い。

4  また右検証当日(昭和四四年二月一七日)と目撃当日(同二七年二月二五日)との日没後同一時間経過の際の明るさは、冬至を過ぎ春分に向う時期の日没後の残光の消え具合についての公知の事実に照らして、後者が前者より幾分明るかったと推測できる。

5  また関係各証拠によれば、柴田武良と一緒にいて、最初に請求人を識別した柴田公人、柴田巖、柴田大八の三名については、東京高裁検証調書の検証の際の識別実験者の位置よりも、遙かに識別が容易な共同墓地の入口付近にいたものと認められる。

6  東京高裁検証調書の記載によれば、実験開始時点においても、ある程度の識別が可能であつたことが認められる。

以上の事情から、同検証調書は、かえつて柴田武良らにおいて識別が可能であつたことを推測させる資料となる、というものであり

7  さらに原審検証調書の検証結果も、右識別可能の結論を裏付けるものである。

ことを付加説示する。

三  そこで考察するに

(一)  まず、犯行当日の、1すな方および共同墓地ならびにその付近の地理的状況、2右同所一帯の天象気象状況、3柴田武良らの目撃位置、4外灯の状況、5柴田武良らの目撃の際の状況を検討すると次のとおりである。

1 すな方および共同墓地ならびにその付近の地理的状況原第一審検証調書(一)(二)によれば

(1)  本件犯行現場となつた高田村大字小舘字桜苅一六四番地すな方住家の西方約一六、七間(約三〇メートル)のところに杉林を隔てて共同墓地があり、東方の同村大字野沢部落方面から西方の同村大字小舘部落(里村商店所在地)方面に通じる道路がすな方住家の北方約四間(約七メートル)先、および共同墓地北側の土堤沿いを走つており、右すな方北方路上から同墓地入口(北側のほぼ中央に位置する。)前までは約二四間(約四三メートル)離れていた

(2)  また墓地内からはその入口前の路上歩行者の全身はみえるが、同入口東方の路上歩行者に対しては、右土堤(墓地敷地からの高さ約二尺、右道路敷地からの高さ約三尺)によつてその下半身に対する望見は一部妨げられていた。

以上のとおり認められる。

2 右同所一帯の天象気象状況

本件犯行当日(昭和二七年二月二五日)夕刻ころの右同所付近一帯における天象気象状況については、原第一審証人柴田武良の供述、青森測候所長柳谷喜太郎作成の昭和二七年一〇月一日付「日没時刻回答」(東地二の一-一五六裏以下、同二の二-五〇六)、司法警察員作成の昭和二七年二月二六日付実況見分調書(東地二の二-三八七以下、以下単に本件実況見分調書という。)、原第一審検証調書(三)によれば

(1)  日没時刻、午後五時二一分(なお、日没時刻を午後五時二二分とする資料もある(記録一-二六以下、東地二の六-二六八以下、記録三-九六七等)が、一応原第一審当時の前掲証拠によつて右のとおり認定する。)

(2)  共同墓地内、同墓地北側道路およびその付近一帯には三、四尺の積雪があつた

(3)  月は出ていなかつた

また青森地方気象台作成の昭和四二年四月二八日付鑑定書写(記録一-二六以下、東地二の六-二六八以下)によれば

(4)  日中降雪があつたが、夕刻前から薄曇りとなつた

(5)  午後六時現在の青森市油川町-青森測候所所在地-における気温マイナス三・三度であつた

以上のとおり認められる。

3 柴田武良らの目撃位置

柴田武良らが共同墓地内にいた際に、同墓地北側路上の歩行者を目撃し、その者を請求人と判断した(ただし、目撃によりそれが請求人であることを直接識別できた旨を供述する者は、柴田公人、同巖、同大八の三名のみである。)時点における同人らの位置、そのときの歩行者の位置等については、原第一、二審、東京高裁等においていずれもその検証の際に武良ら目撃者に指示させて特定しているのであつて、その各位置関係は以下のとおり認められる(ただし、右各検証のすべてにおいて右武良ら全員が指示しているわけではない。)。

(1)  柴田武良について

同人(大正一二年九月五日生、当時二八年)は、東京高裁検証調書表示(本決定書末尾の同検証調書見取図参照。以下同じ)の<イ>点にいて<1>点(共同墓地東北隅の土堤北側の電柱付近の道路上の地点)の歩行者を目撃した(<イ><1>各点間の距離は約一五・一五メートル。右位置関係は、武良の指示に基く原第一審検証調書(一)および原第二審検証調書表示の位置関係と同一と認められる。原第一、二審および東京高裁証人柴田武良の供述、東京高裁検証調書東地二の一-一五七、一五九裏、同二の二原第二審六七表裏、東高一-二四九表裏、一九六表裏参照。なお東京地裁検証調書はなんら右認定を左右するものではない。)。

(2)  柴田フミ、柴田公人、柴田巖、柴田大八について

柴田フミ(昭和六年七月一八日生、当時二〇年)、公人(昭和一三年三月三一日生、当時一三年)、巖(昭和一六年四月一一日生、当時一〇年)および大八(昭和一八年生、当時九年)は、東京高裁検証調書表示<イ>点と<ニ>点(<ニ>点は<イ>点より共同墓地北側入口前の道路上の地点<3>点方向に約四・二五メートル隔つた同墓地内の地点)の間にいて、<1>点或は<3>点(<1><3>各点は、右入口前および墓地北側土堤沿いを走る道路上の地点で、その相互の間は約一三・三メートル離れている。)付近の歩行者を目撃した(<イ><3>各点間の距離は約一五・七六メートル。したがつて<イ><3>各点を結ぶ線上に位置する<ニ>点と<3>点間は約一一・五一メートルである。右各人の位置関係は、フミおよび公人については、原第一審証人柴田フミおよび同柴田公人の各供述、原第一審検証調書(一)および東京高裁検証調書東地二の一-一六五表裏、一六六裏、一七四裏以下、東高一-一九六以下に、また巖および大八については、東京高裁証人柴田武良、原第一審および東京高裁証人柴田巖の各供述、柴田大八の昭和二七年六月一日付司法警察員調書、原第一審検証調書(一)および東京高裁検証調書東高一-二四二裏、二四九表裏、二五三裏、東地二の一-一六九表裏、東高三-七三四表裏、東地二の四-一一七裏九、一〇行目、東地二の一-一七四裏以下、東高一-一九六以下にてらし、右のとおり認定できる。東京地裁検証調書は右認定を左右するものでない。)。

4 外灯の状況

原第一審検証調書(三)および原第二審検証調書の立会人長内文治郎あるいは同柴田武良の各指示説明によれば、武良らの目撃当時、東京高裁検証調書表示<1>点(原第一審検証調書(三)の引用する同調書(一)表示の<ロ>点に相当)付近の電柱には、外灯が点灯していなかつたことが認められる。

5 柴田武良らの目撃の際の状況

原第一審証人柴田武良、同柴田フミ(ただし、一部)、同柴田公人、同柴田巖の各供述(東地二の一-一五六裏以下)および原第一審検証調書(一)によれば、柴田武良は、その子一昭の墓参りに赴くため、妻フミおよび弟公人、同巖、同大八らとともに、昭和二七年二月二五日午後六時過ころ高田村大字小舘字桜苅九一番地の自宅を出て、自宅からおよそ二五〇間(約四五四メートル)離れた里村商店でフミらと別れて、一人で同店付近の鎌田方に木魚を返えしにいき、その間フミらは同商店で菓子を買い、間もなく武良は同商店に戻ってフミらと一緒に共同墓地に赴いた(同商店入口から墓地入口前の東京高裁検証調書表示<3>点((原第一審検証調書(一)表示の(ホ)点に相当。原第二審検証調書参照))までは四八間二尺((約八七メートル))である。)こと、武良らは同墓地においては、一昭の墓に線香をたて、菓子を供え、鉦をたたいたりしてお詣りをし、それから供えた菓子を全員で食べていたところ、同墓地北側道路上をすな方(東方)から里村商店(西方)に向つて歩行する者を認め、武良にはそれが誰だか分らなかつたので、「あれは誰だ」と云うと、公人や巖が「あれは雪婿だ」と答えたが、雪婿とは雪枝の亭主すなわち請求人の意味であること、その歩行者は半纒か、オーバーを頭から被つているようで、顔はよく見えず、頭を傾け、急いでいるような足取りで通り過ぎていつたが、公人や巖は身体の格好から請求人と判断したものであつたこと、その時刻は午後七時前後で、帰宅後三〇分位してラジオの時報が八時を知らせたことが認められる(右証人柴田フミの供述中「この人が雪枝の婿かと思い乍らその横顔をみた。その人は請求人であつたと思う。」旨の部分は、信用できない。同証人の東京地裁供述は、右供述の趣旨を訂正するものと認められる。東地一の二-八八裏ないし八九裏、九一裏ないし九三参照)。

(二)  原決定認定の目撃時刻と目撃位置について(前記二2、5の原決定の判断について)

1 (目撃時刻)原決定は、「原判決は目撃時刻の判断を明示していないが、原第二審判決においては、武良らが自宅を出たのが午後六時ころ、共同墓地に到着したのが同六時一〇分ころ、同墓地にいた時間が約四〇分間、歩行者を目撃したのが同六時五〇分ころと判断されている。しかし関係各証拠によれば、右自宅を出たのは午後六時過ころ、右到着時刻が午後六時一五分ないし二〇分ころ、同墓地内にいた時間が約一五分ないし二〇分間、歩行者を目撃したのが、同六時三〇分ころないし四〇分ころと認められる」旨説示しているところ(原決定書六三丁表裏)、目撃時刻についての原決定と原第二審判決の判断が相違する原因は、武良らが共同墓地内にいた時間(原第二審判決は右のとおり約四〇分間とする。)の認定の差にあるものと解される。

しかるところ、原第一審証人柴田武良は、共同墓地内にいた時間につき「四〇分以上もいた」旨(東地二の一-一五七裏一六一裏)を供述し、同柴田フミも「墓所前で一把の線香に火をつけて立て、持つていた供物をし、それから一〇分位も鉦をたたき、それをやめて五分位もその場におり、それから供物の菓子を下げて皆に分けて食べている最中に請求人が通りかかつた」旨(同-一六三裏)を供述しているのであつて、前記(一)5認定の同人らの帰宅時刻とも合わせ考えると、武良らが共同墓地内にいた時間を約四〇分間とし、目撃時刻を午後六時五〇分ころとした原第二審判決の認定は肯認できるのである(なお、この点については、柴田フミ、同巖の東京地裁供述東地二の一-一六五、同一の二-七八裏、七九、一二四裏、一二五参照)。

しかるに原決定は、この点について原第一審公判不提出の武良の昭和二七年五月一〇日付検察官調書を根拠として、武良は原第一審の尋問の際に、墓地に着いたのは午後六時過ころと供述したところ、検察官に対しては目撃時刻を午後七時前後と供述していたため、この間の辻つまを合わせたい気持から、墓地滞在時間を四〇分間といつたのではないかと疑われ、東京地裁で尋問をうけたとき、同人は「長くおつても三〇分まではおらなかつたと思います」旨を供述している(東地一の二-六二裏)ことに照らしても、四〇分間滞在の供述は信用できず、フミの供述にしたがい一五分ないし多くとも二〇分をこえることはないものと認められると説示する(原決定書六五丁裏ないし六七丁裏)が、武良の右東京地裁供述によつても一五分ないし二〇分間の滞在が積極的に裏付けられるものでないのみでなく、フミの前記原第一審供述は、鉦をたたいていた時間と、その後供え物を食べ始めるまでの間の時間のみをいうのであって、全体の墓地滞在時間にふれるところはないから原決定の右説示は首肯できない。

結局、原決定の、武良らの墓地滞在時間の認定、ひいては目撃時刻の認定には、証拠の評価を誤り、事実を誤認した疑いがある。

2 (目撃位置)原決定は、原第一審公判不提出の武良らの捜査官に対する昭和二七年五月九日付ないし同年六月一日付各供述調書(東地二の四-八六以下、九一以下、九七、一〇二、一〇九、一一三以下、一一九)を挙示して、「柴田武良、フミ、公人、巖、大八らの捜査官に対する各供述調書に徴すると、各目撃者中武良、フミの目撃地点は、東京高裁検証調書における各立会人の指示地点にほぼ見合うものと認められるが、公人、巖、大八の各目撃地点は、いずれも右指示地点よりもかなり目撃された歩行者に近い、共同墓地の入口付近であつたと認められ、右検証の際の識別実験者の位置よりも遙かに識別が容易な位置にいたものと認められる」旨説示している(原決定書六一丁裏ないし六三丁表)。

しかし右公人、巖、大八の各供述調書(いずれも原第一審検証調書(一)の検証以前に作成されたもの)を精査しても、右各人は、目撃した位置を「墓所の出入口のところ」、「墓所の入口のところ」或は「墓所から出るとき」などというにとどまり、なんら目撃位置を具体的に特定するに足りる供述をしていないのであつて、むしろこれを現地につき特定したものが、原第一審、東京高裁等の各検証現場において実際に指示された地点と認めるべきである。したがつて前記のような捜査官に対する漠然とした供述をもつて直ちに具体的目撃位置の証拠に供した原決定は、証拠の評価を誤つたものといわざるを得ない。

(三)  なお、原決定においてはほとんど言及されていないが、識別の能否を検証した原第一審検証調書(三)および原第二審検証調書の検証結果につき付言すると

1 原第一審検証調書(三)

同調書によれば、原第一審は昭和二七年一〇月二一日午後五時三〇分から午後六時〇分まで識別の能否を検証したが、当時、日没時刻は午後四時四九分、月なく、全天雲なく星あり、前記(一)4の電柱の外灯を消灯する、との条件下で行われ(同調書(三)に積雪の有無の記載なし)、したがつて武良ら目撃当日の午後七時が日没後九九分を経過した時点であり(前記(一)2(1) 参照)、右検証時の日没後同一時間経過時点は、午後六時二八分であるところ、右検証時の午後六時においては、原第一審検証調書(三)引用の同検証調書(一)表示(ニ)点から(ロ)点の人影は全くわからず((ニ)点はフミの目撃位置で、東京高裁検証調書表示の<イ><ニ>各点の間にある。前記(一)3(2) 参照。(ロ)点は共同墓地東北隅の土堤北側の電柱付近の道路上の地点で右調書表示<1>点に相当する。前記(一)3(1) 、4および原第二審検証調書参照)、ただ声をかけて確かめ、辛うじて白つぽい服装の者の人影を判別でき、(ロ)点から(ホ)点(東京高裁検証調書表示の「<1>から<3>点」に相当。前記(一)3(1) (2) 、5参照)に近づく者は、足音により位置を確かめ、注意してみることによつて人影をどうやら認めることができたというものであつたことが認められ、

2 原第二審検証調書

同調書(および裁判所書記官佐々木孝司作成の電話聴取書東地二の二原第二審四四)によれば、原第二審は昭和二八年四月二日午後六時四〇分から午後七時一〇分までの間識別の能否を検証したが、当時、日没時刻は午後六時〇三分、積雪は共同墓地内に四、五寸から一尺位あつたが、墓地北側路上にはなく、月の出午後九時〇四分、全天薄雲に覆われた曇天であり、また前記(一)4の電柱の外灯を消灯するとの条件下で行われ、したがつて右検証時における日没後八九分(目撃当日の日没時刻午後五時二一分から原第二審判決認定の午後六時五〇分迄の経過時間)を経過した時点をみると、それは午後七時三二分であるところ、右検証時の午後七時においては、同調書表示(ハ)点(武良の目撃位置で、東京高裁検証調書表示<イ>点に相当。前記(一)3(1) 参照)から(ロ)、(ホ)各点(東京高裁検証調書表示<1><3>各点に相当。前記(一)3(1) (2) 、5、(三)1参照)の間の歩行者を見通したところ、帽子の有無は識別できず、ただ姿により四名中一名を識別できたのみであり、ただ午後七時〇二分に試みた墓地北側道路とは正反対の南側残雪上の、右(ハ)点より八間二尺離れた地点の歩行者を見通したところ、姿により四名全員を識別できたというものであつたが、午後七時一〇分で検証が打ち切られ、右午後七時三二分の時点における検証は行われなかつたことが認められる。

3 したがつて原第一審検証調書(三)、原第二審検証調書はいずれも柴田武良らの識別可能を積極的に裏付けるものではないというべきである。

(四)  東京高裁検証調書(新証拠)

1 同調書によれば、その検証(昭和四四年二月一七日)実施の際の条件および結果は、以下のとおりである(本決定書末尾の同検証調書見取図参照)。

(1)  識別実験開始時刻 午後六時二八分

(2)  日没時刻 午後五時〇三分

(3)  共同墓地内、同墓地北側道路およびその付近一帯に約一メートル前後の積雪あり

(4)  薄雲が全天三分の一位にあつて月は既に入り、星が輝く

(5)  同調書表示<1>点(原第一審検証調書(一)表示(ロ)点に相当。前記(三)1参照)付近の電柱の外灯を消す

(6)  識別地点 同調書表示<イ>点(武良の位置)および<ニ>点(最も北寄りにいた大八の位置。以上につき前記(一)3(1) (2) 参照)に識別実験者が位置し、<1>点から<3>点(墓地北側路上の区間で約一三・三メートル。原第一審検証調書(一)表示(ロ)(ホ)の各点間に相当。前記(一)3(1) (2) 、5、(三)1参照)に向つて歩行する者の識別の能否を試みる。

<イ>-<1>の各点間 約一五・一五メートル

<イ>-<3>の各点間 約一五・七六メートル

<ニ>-<3>の各点間 約一一・五一メートル

(7)  検証結果

まず、<1>点東方目測二〇メートルの電柱<C>点(原第一、二審各検証調書に記載がなく、犯行当時の同電柱の有無は不明であつた。)の外灯を点灯した状態で午後六時二八分の時点において、<ニ>点からは、姿勢或は挙動のシルエツトによつて、ようやくにして平服の歩行者について何人かが識別できる程度で、顔、衣服の色の識別は不能であり、八寸(半纏)を頭から羽織ると識別はできず、続いて<イ>点からではシルエツトはみえるが、それによる人物の識別は頗る困難となり、以後右外灯を消灯した状態では<ニ>点、<イ>点のいずれからも人物の識別は不能であつた。そして午後七時〇五分に右第一回の実験を終え、第二回の実験を午後七時一〇分より実施したが、右外灯の点滅に影響なく、右各地点からの人物の識別は不能との結果に終つた。

2 右検証結果の評価

(1)  原判決認定の犯行時刻(目撃時刻)は午後七時ころであり、同時刻は日没後九九分経過したころであるが(前記(一)2(1) 参照)、右検証当日の日没後九九分経過した時刻は、午後六時四二分(原第二審判決が認定した目撃時刻である午後六時五〇分を規準にすれば午後六時三二分)である。

(2)  ところで原決定は、前記二4のとおり、東京高裁検証調書の検証実施日(二月一七日)と、柴田武良らの目撃当日(二月二五日)の、日没後の残光の消え具合いの差を問題としているが、前記((一)2)青森地方気象台作成の昭和四二年四月二八日付鑑定書写によれば、「(右目撃当日)高田村大字小舘字桜苅近辺においては、太陽は、その沈む方向が高頭森山の南側(約二五七度)に当るため、およそ午後四時三〇分から四〇分の間には山岳の稜線下に、午後六時五〇分頃は地平線下(高度マイナス一七・五度)にあつて天文薄明も終つた状態となり、戸外の視界状況は雪あかりもほとんどなく、暗い状態にあつたと推定される」から、右当日の午後七時ころ(ないし原第二審判決認定の午後六時五〇分ころ)においては、原決定説示のごとき日没後の残光の消え具合を問題とすることには疑問がある。

(3)  したがつて、東京高裁検証調書の検証結果は、その検証当日の午後六時四二分(ないし午後六時三二分)現在(右(1) 参照)においては、半纒様のものを被つた歩行者について(前記(一)5参照)識別が著しく困難もしくは不能であつたことを示すものであるから、同調書の記載は柴田武良らが請求人を識別した旨の同人らの原第一、二審供述の信用性につき合理的な疑いを抱かせるに十分であつて、証拠の明白性を肯定すべきであり、このことは前記のように原第一審検証調書(三)および第二審検証調書(さらに後記原審検証調書)の検証結果がいずれも目撃の可能性を肯定していないことによつても裏付けられているというべきである。

(五)  原審検証調書

原決定は、前記二7のとおり、原審検証調書の検証結果は、柴田武良らの識別可能の結論を裏付けるものであると説示するから判断するに、同調書によれば、右検証(昭和四六年二月二六日)実施の際の条件および方法は以下のとおりである。

(1)  識別実験開始時刻 午後六時

(2)  日没時刻 午後五時二三分

(3)  四界積雪あり

(4)  月の出 午後六時三一分 月令 〇・七

午後五時二〇分現在 天空に雲なし

午後五時五〇分現在 ほぼ天心に星の輝きをみる

(5)  東京高裁検証調書表示<1>点付近の電柱の外灯は消灯し、同調書表示<C>点の外灯は点滅させる(前記(四)1(5) および(7) 参照)

(6)  同調書表示<イ>点を識別者の基準位置とし、同表示<1>点から<3>点に向い歩行する者の識別を試みる。

暗さが増し識別が困難になるにしたがい<イ>点から<3>点に接近していき、識別可能位置を測定する。

およそ、以上のとおりである。

したがつて、右原審検証時の日没時刻は東京高裁検証調書の検証時のそれより、遙かに柴田武良らの日撃当日のそれに近似するものであつた。

しかしその検証結果は、原決定が説示するとおり「被識別者が平服を着用した場合に限定すると、午後六時五分の歩行の際、すでに一〇メートル以内の地点でも姿以外の手がかりで識別できた者はなく、また識別できた距離は五、六メートルないし一〇メートル、同六時三一分の際には、これが二、三メートルから七メートル、同六時四六分と四七分の際には、いずれもこれが一メートルから三メートル、同七時一分と三分の際には、いずれもこれが二メートルから四メートル、同七時一〇分以降では不能との結果が出た(原決定書六九丁表ないし七〇丁表参照)ことがおおむね認められる。

したがつて右検証結果によれば、武良らの目撃当日において、前記(一)3(1) および(2) の各目撃位置(いずれも東京高裁検証調書表示の<3>点から一〇メートル以上離れている。)からは同表示<1>および<3>の各点間の歩行者の識別は午後六時二九分(同時刻までの日没後経過時間が原審検証実施日の午後六時三一分におけるそれに相応する。)に、既に著しく困難ないし不能であつたと推認すべきであり、右検証結果は決して原決定説示のように、武良らの目撃につき対象の識別は可能との結論を裏付けるものではないというべきである。

(六)  したがつて、東京高裁検証調書は柴田武良らにおいて識別が可能であつたことを推測させるものであるとして明白性を否定した原決定の判断は、結局証拠の評価を誤つたものといわなければならない。

第八芳春および請求人の自白の信用性

一  芳春の自供が証拠の明白性の要件を備えるか否かについての判断にあたつては、まず請求人の自供と対比しつつ、その任意性、本件犯跡或は関係証拠との適合性などの諸点について、検討をなすべきである。

二  芳春および請求人の各自供とその任意性

(一)  請求人の自供に至る経緯

原決定挙示の関係各証拠(原決定書九丁表参照)によれば、以下のとおり認められる。

1 (経歴)請求人は青森市古川において米谷三四の長男として出生し、同地の小学校を卒業後、同市内のトタン屋に奉公し、その後兵役に服し、昭和二〇年八月復員して鈑金工の職に戻り、昭和二一年一一月長内雪枝(大正一三年一〇月一四日生)と結婚後、トタン屋を自営するに至つたが、同女が脊髄カリエスに罹つてから、請求人夫婦は、請求人の両親らとの間に気まづい状態となつたことなどのため、同女は昭和二五年八月ころ実家の高田村大字小舘字桜苅四五番地に戻り、請求人も自己の実家の跡継は弟清に委ねて、雪枝方に移り住み、本籍も同所に移し、同所から青森市内に働きに出ていた。

しかし請求人の仕事は少く、その合い間には雪枝方の農業の手伝などをしていたが、同人夫婦の食事代も昭和二六年暮ころに二、〇〇〇円を一度差し入れたのみで、殆んど同家の世話を受ける状況であつた。同家の家族は雪枝の祖父母、母、弟二人であつた。

2 (捜査状況)青森地区警察署の捜査官は、本件犯行現場に遺留されていた折鶴模様の日本手拭(領置調書東地二の一-三七。原第一、二審押収の証第一四号)につき、昭和二七年二月末までには、長内義昭から請求人が日常使用していたものに絶対間違いない旨の供述(東地二の五-一三七以下)を、また別居中のすなの長男川村芳男などから、すなのものでないなどの供述(東地二の四-三五、四五、五六表裏)を得、その後も聞き込み捜査を継続して、請求人は同月初ころすな方の風呂を修理し、同月二三日ころ入浴しにいつているなど情報を入手して同人に対し嫌疑を深めていた一方、右芳男から現金一、〇〇〇円位を盗まれていた旨の届出がなされ(東地二の四-五八以下)、同年三月二日午前六時四五分請求人を強姦、強盗(現金一、〇〇〇円位の強取)、殺人の被疑事実で雪枝の実家において逮捕した。

3 (前歴)請求人には前科はないが、昭和二五年夏ころ、乗車中の荷馬車内から現金一万円余りを窃取し、弁償して警察沙汰にならなかつたことがあつたほか、部落内では近隣の自転車を盗んだなどの評判もあつて、右逮捕前、既に犯人は請求人ではないかとの噂すら流れていた。

4 (供述内容)請求人は右逮捕後、起訴された昭和二七年三月二三日までの間(同月一二日までは青森地区警察署留置場、その後は柳町拘置支所に勾留)において取調をうけ、勾留質問調書一通のほか、一〇通の供述調書を作成されたが

(1)  司法警察員梅木良男に対する同月二日付弁解録取書および同月三日付第一回供述調書はいずれも犯行を否認するものであつた(東地二の三-一五五以下、同二の二-四二五以下)。

(2)  しかるに同月四日午前一一時三〇分ころ青森地方検察庁において、渡辺彦一検事に対し自白し、「私がやりました」との簡単な自供を内容とする弁解録取書が作成され、ついで青森地区警察署において梅木司法警察員に対し、次に記載するごとき詳細な自白をなし(第二回供述調書、東地二の二-四三五以下)、また同日夕刻の裁判官による勾留質問に対しては、勾留請求書引用の逮捕状請求書記載の被疑事実中、現金強取の点を否認するほか、その余の事実(要旨は「すなの着ている着物の襟で頸部を絞めて絞殺し、同女を姦淫したというもの」)を認めた(同日付勾留質問調書、東地二の二-四六四以下、同二の五-四四、同二の四-七八裏、同二の一-七五表裏)。

ところで右梅木司法警察員に対する供述の要旨は、犯行時刻を午後七時ころとし、金員強取の点にはふれず、姦淫、殺害の点について詳細に自白するものであるが、犯意の発生時点については「里村商店を出たときすなは一人でいるから関係してやろうと思つた」旨、また犯行については「すなの胸のあたりを右手挙で押した」「すなを敷かれてあつた布団に寝せてから、姦淫し、膣内に射精してから顔を知られてしまつたので、後が大変だと思い、同女の枕元にいき、紐の様なものを同女の首にかけ後方から両手で引張つたら、同女がぐつたりした」「帰宅時刻は午後八時前と思う。」旨をいうものであつた。

(3)  梅木司法警察員に対する同月五日付第三回供述調書(東地二の二-四四三以下)は、犯行時刻を午後六時過ころすな方を訪ね、五分位話をした後、と述べ、金員強取、日本手拭遺留の点を否認し、自供内容は、犯意の発生時点について右(2) の供述と同一であつたが、首絞めと姦淫の先後の順、首絞めの方法などについては右(2) の供述を変え、また殺意を否認するものであつた。すなわち、その要旨は、「すなを布団に仰向けに寝せてから、自分の体を同女の上に覆せ、着ている着物を口のすぐ下で両方より上に絞めたら、同女は『うん』とうなつた。それから姦淫し、膣外にも射精したような記憶がある。首を絞めたのは、夢中でおどかす気持でやつたので、殺す気持はなかつた。」というものである。

(4)  三浦永作司法警察員に対する同月八日付第四回供述調書(東地二の二-四五四以下)(原判決挙示)は、金員強取、日本手拭遺留の点にふれず、犯行時刻を六時半ころから七時前後とし、犯意の発生時点について右(3) の供述を変えたが、犯行内容については、ほぼ右供述にそうものであつた。すなわち、その要旨は、「里村商店を出てすなのところに遊びにいつた。炬燵に入つて話しているうちに関係する気になつた。」「すなの右胸のあたりを一回どんと突いた。」「すなを布団に寝せてから、両手で着ている着物の襟をしめ、動かなくなつてから姦淫し、膣内射精した。」「帰宅時刻は午後七時半ころであつた。」というものである(ただし原判決は、姦淫および膣内射精に関する第六項を除外している。)。

(5)  梅木司法警察員に対する同月一一日付第五回供述調書(東地二の二-四六一以下)は、「すなを殺して非常に済まない事をしたと考えている」旨を簡単に述べるほかは、雪枝との性交渉は、一週間に二回位ある旨などを供述するものであつた。

(6)  渡辺彦一検察官に対する同月一七日付第一回供述調書(原判決挙示)(東地二の二-四六六以下)は、金員強取、日本手拭遺留の点を否認し、自供内容は犯意の発生時点について前記(3) の供述を変えたが、犯行内容については、ほぼ同供述にそうものであつた。すなわち、その要旨は、「里村商店を出たとき、芳春がすな方にいつているかもしれないので、同女方へいつて話をしようと思い、午後六時半ころ同女方を訪ね、同女と炬燵にあたつて五分位話をしているうちに関係する気になつた。」「右手拳ですなの右胸のあたりを一回どんと突いた。」「すなを布団に寝せ、おとなしくさせようとして、両手で同女の着ている着物の襟で首を二、三分絞めたら、おとなしくなつたので姦淫し、膣内射精した。」「殺意はなかつた。」「すな方へ行つた時から帰るまでは大体三〇分位である。」というものである(ただし原判決は、姦淫および膣内射精に関する第五項の一部を除外している。)。

(7)  佐藤鶴松検察官に対する同月二二日付第二回供述調書(東地二の二-四七三以下)は、自己の生い立ち、経歴などのほか犯行当日の二月二五日の夕食時(犯行前)までの行動について供述するものであつた。

(なお、右検察官の東京地裁証人供述((東地一の三-三〇六裏ないし三〇八裏、三一二、三五一裏、三五五))によれば、請求人は渡辺彦一検察官に対し、従前の自供を飜し、否認するに至つた後、右佐藤検察官が、渡辺検察官から請求人の取調を引継ぎ、右供述調書が作成されたことが認められる。)

(8)  佐藤検察官に対する同月二三日付第三回供述調書(東地二の二-四八〇以下)は、二月二五日はすな方に行つたことはないと、犯行を全面的に否認するものであつたが、従前自供した理由については「警察官からお前を見た者がある、犯行の現場にあつた物がお前の物であると云つて居る者もある。お前の妻や家族達に聞いたが、現場にある物はお前の物だと云つて居ると云つた様な事を述べて尋ねられたから、それ程迄確かな証拠があるならば致方が無いやけ気味もあつて、裁判所で取調べを受ける時に犯人は自分で無い事を云おうと思つて、仕方なしにでたらめな事を申して強姦したとか首を絞めて殺したとかいつた。」「検察官には警察で嘘をいつたから、否認しても仕方ないものと思つてでたらめを云つた。」などと供述するものであつた。

(なお、現場に遺留の折鶴模様の日本手拭と同じ模様の日本手拭が二月二九日にすな方において発見され、遺留の手拭もすなが使用していたものと思われる旨の川村芳男の司法警察員調書および右発見の日本手拭の領置調書がいずれも同年三月一〇日付をもつて作成され((東地二の四-六〇以下、六三、なお同人の同月二〇日付検察官調書、同-七二裏ないし七三裏))、同月一一日付をもつて右発見の手拭は、右司法警察員調書などと共に、検察官に追送されていたものである((東地二の三-一六〇))。)

以上のとおり認められる。

(二)  右自供の任意性

1 (公判における態度)

(1)  前記第一、一および第四(一)のとおり検察官は昭和二七年三月二三日青森地方裁判所(原第一審)に対し請求人を強姦致死、殺人の罪名のもとに起訴し、請求人は第一回公判より終始、犯行を否認していたが、他方、関係各証拠によれば、検察官においては既に遺留の日本手拭はすな所持の物件との疑いが濃く、その公判維持において有力な物証を欠く状況であつたところ、第二回公判以後の同年五月七日ころ高田巡査駐在所勤務の森内盛治郎巡査において、柴田武良らが共同墓地入口付近で請求人を目撃したとの聞き込みを得(東地二の四-八二以下、同一の三-二二裏)、同月九日から同年六月一日にかけて右武良ら目撃者の捜査官調書が作成される(東地二の四-八四ないし一二二)とともに、検察官は右武良らの証人申請をして、原第一審においてその尋問がなされた(右捜査官調書はいずれも原第一審に提出されることがなかつた。)が、請求人は右証人尋問の際に、武良らが請求人を目撃した旨を供述しているにも拘らず、裁判所から尋問の機会を与えられながら「何も尋ねることはない」旨を述べるなど全く消極的な態度に終始し(東地二の一-一六二、一六五裏一六八、一七一裏一七四)、原第二審公判においても、犯行否認の態度には変りなかつたが、武良らの再度の証言に対しても、これを攻撃する態度はみせなかつた。

(2)  しかも請求人は原第一審第四回公判においては、「警察、検察庁や裁判所のどこでも無理に調べられたことはなく、調書は後で読み聞かされて間違いなかつたので私が署名指印しました」旨を述べていた(東地二の二-四二二表裏)。

また請求人は同第六回公判においては、「初め自分は、行つた覚えはないと云つたが、警察ではお前が川村の家へ行つてくるのを見た者が居る、ちやんと証拠も揃つていると云つて、自分が何度もそうでないと云つたが、何度もそういつて責められるので、頭がおかしくなり、自分は罪から免れることができないのか、聞かれる通りになるより仕方ないと思つて検察官に自白し、また警察では『こうしたのだろう』『ハイ』『ああしたのだろう』『ハイ』と何でも聞かれるままに返事したのである。警察では自分が何を云つても、云うことをきいてくれなかつた。裁判所の勾留尋問のときは、自分が犯人になるのではないかという気持で頭が一杯で、裁判所であるかどうか判らなかつた。しかし警察で調べを受けるとき、暴行や脅迫をうけたことはない」旨を供述し(東地二の二-五八七裏ないし五八九裏)、原第二審第七回公判においては、「警察では、手拭を持ち出し、いくら隠しても駄目だ、見た人もあると云われ、弁解をきき入れてもらえなかつた。頭がぼうつとして尋ねられたとおりそうですそうですと返事した」旨を供述し(東地二の二原第二審一二四ないし一二五裏)、また東京地裁証人佐藤鶴松も、請求人は同検察官の取調の際「警察ではお前いわんというとこつちは証拠がある証拠があるの一点ばりであつたんで思いつきのまま述べた」と語つていた旨を供述する(東地一の三-三一二)。

2 ところで当時の警察官の取調べについては、かなり行き過ぎた点のあつたことが窺われないではない。すなわち、東京地裁証人長内義昭、同長内つげ、同佐藤鶴松の各供述、長内石藏の戸籍謄本(東地一の三-九六裏ないし九七裏、同一の六-一九九裏二〇〇、同一の三-三四七裏三四八、同二の六-二三六)および前記第一、一認定の事実に徴すれば、長内義昭は犯行当夜の二月二五日午後一〇時ころすな方に泊りにいき、翌朝同女の死を知つて直ちに父石藏に知らせたのであるが、警察官は当時一六年(昭和一〇年一二月二三日生)の義昭を強く疑い、同人を二六日午後四時か五時ころから捜査本部の置かれた野沢小学校において取り調べ、お前がやつたのだろうと追及し、当夜は令状もなしに同所に留め置いて帰宅を許さず、翌二七日は同本部が移された高田村の集会場において引き続き夜一一時ころまで取調を継続したことが認められる(しかも、義昭が遺留の日本手拭につき、それが請求人のものである旨の供述をしたのは、右留め置かれた翌二七日であることは、同人の梅木良男司法警察員に対する同日付供述調書に徴し明らかである。)。

3 したがつて、右義昭の取調を担当した梅木司法警察員が前記のとおり請求人の取調をも担当していたのであるが、もとより請求人や義昭の取調については、同人のみが終始関与していたものではないとしても、かなり追及的な取調がなされたことが窺われる(前記東京地裁証人佐藤鶴松の供述参照)ところ、請求人の自供が前記のとおり、犯意の発生時点、犯行時刻、殺意、犯行態様等の重要な諸点において変遷していることもあわせ考慮するならば、同自供は、同人の弁解するごとき警察官の誘導ないし執拗な追及に影響されなかつたとはたやすくは云い難く、その任意性に全く疑念がないわけではない。

この点において、東京地裁証人工藤(旧姓梅木)良男、同三浦永作、同太田猛は、請求人が自供をはじめるとき廊下に手をついて号泣していたとか、その他その任意性を裏付けるごとき事情を供述する(東地一の二-二〇九裏二一四、二七三表裏三一四裏等)が、いずれもたやすくは採用し難い(右廊下に手をついた点につき、請求人の当審供述記録七-二一一二ないし二一一三参照)。

原決定においても、請求人に対しては、捜査官によるある程度の追及的な取調が行われたことは容易に推認することができるとしているのであるが、それにも拘らず、結論においてその自供の任意性を全面的に肯認している(原決定書一〇二丁表裏)ことは、妥当を欠くものである。

(三)  芳春の自供に至る経緯

また前記(一)冒頭の各証拠によれば、

1 (経歴等)芳春(昭和八年三月三日生)は東津軽郡高田村(現在青森市)大字小舘字桜苅一九一番地の本籍地において父石藏の四男として出生し、昭和一三年ころ一家で北海道釧路市に移住して同地の小学校高等科を卒業後、炭鉱の組夫として稼働したが、昭和二三年ころ一家して右本籍地に戻り、同二五年秋ころ再び単身、釧路市に赴いて炭鉱の組夫となつたが、そのころ的屋の組織に入つて不良交遊を深め、窃盗事件を起して昭和二六年七月ころ本籍地に戻り、同所で家業の農業の手伝いや日稼人夫に従事した。

そのころ隣家に住む請求人は石藏方に足繁く出入していたが、芳春とは年令の差が開いていて、同人方においては、主に石藏がその話相手であつた。

芳春はすな殺害事件の捜査の際、取調を受けたが、犯行当夜は、同部落内の鎌田孝一方でトランプ遊びをしていたというアリバイを認められ、昭和二八年一月北海道帯広市駐屯の保安隊に入隊し、同二九年八月依願退職後北海道、青森市内などでトラツクやタクシーの運転手などを転々とし、その間の昭和三一年に毛利さとと結婚して、二児を儲うけたが、深酒に浸り、同女に乱暴を働くなどのため、同女との間に溝を生ずるようになつた一方、坂本ちよえと知り合つて昭和三三年ころ帯広で同女と同棲をはじめ、同年一〇月にさとと協議離婚し、子供を同女が引き取り、芳春は翌三四年にちよえと結婚して同女との間にも二児を儲うけ、釧路、旭川、青森でタクシーの運転手などをした後、昭和三八年初めころに神奈川県川崎市に移り、タクシー運転手をしていた。

しかし同年一二月ころちよえも亦、芳春の酔余の乱暴に耐えきれず、当時の横浜市の住居に二人の子を残して同女の青森市の実家に戻り、芳春の帰宅の申し入れをも、かたくなに拒絶して、遂に昭和三九年五月芳春とちよえは調停離婚をなすに至つた。

その後芳春は右二児を自己の実家に預けて、大阪、横浜、東京などでタクシー運転手などをしていたが、深酒を飲み、生活はすさみ、昭和四一年二月二三日実家に戻つたところを、脅迫事件(元勤務先の都内のタクシー会社役員らに対し解雇されたことなどに言い掛りをつけて「殺しにきたなどと」脅迫した事件)で逮捕され、翌二四日警視庁本所警察署に護送され、勾留中同年三月五日脅迫罪(右事件)、同月一六日窃盗罪(自動車窃盗)で東京地方裁判所に起訴され、同年四月三〇日右両罪につき懲役一年(未決勾留日数二〇日算入)の判決の言渡を受け(該判決謄本東地二の六-二五〇以下)、同年五月一五日同判決は確定した。

2 (前科等)芳春は北海道において的屋の組織に入つている間に窃盗の非行に走り、保護観察処分を受けたほか

(1)  昭和三二年六月二五日蟹田簡易裁判所において窃盗(ワイヤーロープ等の窃取)の罪により懲役八月執行猶予三年

(2)  昭和三七年三月二六日帯広簡易裁判所において暴行罪により罰金三〇〇〇円

(3)  昭和四〇年八月一〇日青森地方裁判所において窃盗(自動車窃盗)詐欺(無銭飲食)の罪により懲役一年六月執行猶予四年保護観察付

に処せられた(右のほか、道路交通法規違反の科料、罰金などの前科四犯がある)。

また

(4)  昭和三二年四月三〇日窃盗(忍込)(5)  同四〇年四月六日窃盗(自動車窃盗)(6)  同四一年二月七日詐欺(無銭飲食)によりいずれも起訴猶予処分を受けた前歴があつた。

3 (供述)

芳春は前記脅迫、窃盗事件につき東京地方裁判所において公判審理中本所警察署に勾留されていた際、昭和四一年四月七日同署勤務の小笠原恒久巡査に対し、自分はすな殺害の真犯人である旨を告白するに及んで、翌日以降同殺害事件につき取調を受けることとなつたが、次のとおり昭和四二年二月二二日までの長期間にわたつてその自供をひるがえすことがなかつた(なお、右取調の間の昭和四一年八月六日には、前記青森地方裁判所において言渡されていた執行猶予付懲役刑についてのその猶予の取消決定が確定した。東地二の六-二四一以下)。すなわち

(1)  伊藤良喜司法警察員に対する昭和四一年四月八日付供述調書(東地二の六-九一以下。新証拠)は、すなの殺害、姦淫、犯行の動機、金員強取の点などについて自供するほか、捜査官に対し、虚偽のアリバイを主張した旨供述するのであるが、その自供の要旨は「金員を奪う目的で、すなの背後からマフラーでその首を絞めて殺した後、同女のももをみてにわかに姦淫する気になつたが、射精が早くてその目的を遂げなかつた。その後室内を物色してガマ口から現金二百六、七十円を奪つた。」というものであり、また告白の動機については「犯行を忘れようと思つて次第に深酒を飲むようになつたが忘れられず、すなの夢をみては苦しい思いをしていた。これまで何度も警察に捕り、その度に話そうとしたが、度胸が出なかつた。一度は罪のつぐないをしなければならないし、それには子供が大きくなつてからではかわいそうだと思い、この際、苦しい思いから逃れるため申し上げることにした。」というものである。

(2)  遠藤義衛司法警察員に対する同年五月一四日付供述調書(東地二の六-一二三以下。新証拠)は、犯行前後の状況(捜査官に対する虚偽のアリバイの主張を含む)について詳細に供述するものであるが、犯行自体については、簡単に「叔母をやつた」というものである。

(3)  山崎恒幸検察官に対し、同月一七日から同月二四日の間に四回にわたつて詳細なる自供をなし、録音テープ全六巻(録音時間延約九時間三〇分。東京地裁昭和四二年押第六八六号の五ないし一〇)に採録されたが、犯行状況、告白の動機などの供述内容は、前記(1) のそれと全く同旨であつた(東地二の七ないし九はその録取書)。

また右自供の採録開始にあたつては、同検察官から、事案が重大である旨、警察で虚偽の自白をしたのなら撤回するようにと、告げられていた(検察事務官水谷重巳の報告書東地二の六-二六三以下)。

(4)  芳春作成の同月二四日付供述書(東地二の六-二二〇以下。新証拠)は、自己の生い立ち、犯行の動機、犯行後の心境などを詳細に述べるものであり、同書面中「一四年前の事件のことであるのではつきり想い出せない事が多い。しかし自分が起した事件であることに相違いない。自分の気持は現在どんな刑を受けようともすつかり覚悟はきまつている。可愛い子供の顔を一日も早くみたい、暮したいと想う気持である。今は刑を終えて再会する日を待つばかりである」旨を述べるところがある。

(5)  山崎検察官に対する同月三〇日付供述調書(東地二の六-一三四以下。新証拠)は、「すなを殺した」旨を簡単に述べるほかは、自己の生い立ち、経歴などを述べるものである。

(6)  山崎検察官に対する同月三一日付供述調書(A)および(B)(二通)(東地二の六-一四六以下、一七六以下。いずれも新証拠)のうち、(A)の調書は、前記(1) 同様、姦淫、金員強取、告白の動機、虚偽のアリバイなどについて詳細に自供するものであるが、姦淫については「すなを殺した後、にわかに同女を姦淫する気になつたが、射精が早くてその目的を遂げなかつた」旨、また時効に関しては「すな殺害事件の時効は来年の二月に切れることは知つていたが、今ではそれにこだわる気持はなく、死刑でも無期でも服する気持でいるが、又一方では、このまま表面化しないで済まして貰えるものならこれ程ありがたいことはない」旨を述べるものであり、(B)の調書においても、生い立ち、経歴、犯行の動機、殺害の状況などを詳細に述べ、前記(1) の供述との間に殆んど差異はない。

(7)  遠藤司法警察員に対する同年六月一二日付供述調書(東地二の六-一三〇以下)は、犯行後の心境を供述するものであるが、同調書中には「二度目の妻と別れてからは、どうせ俺は懲役に行かなければならない身だと心がすさび、やけ気味になつてしまつて深酒をしたり、人にからんだりして、一定のところに働くことができなかつた」旨を述べるところがある。

(8)  中野博士検察官に対する同年一一月一七日付供述調書(東地二の六-一九九以下。新証拠)は、犯行およびその前後の状況を供述するものであるが、同調書中には「親兄弟、別れた妻、世間などに対する反感や恨みから嘘の自供をしているのでない。本当に良心的な苦痛から逃れて、罪の償いをしたい気持からである」旨を述べるところがある。

(9)  山崎検察官に対する昭和四二年二月二一日付供述調書(東地二の六-二〇六以下)は、犯行およびその後の状況を供述するものであるが、同調書中には「今では事件の告白をしたことについていらぬ事を喋つたと内心後悔しており、この前中野検事が調べに来たときもやつていないと云い直そうと思つたが、実際に自分でやつたことだし、既に言い出してしまつた以上仕方がないと思つて思い直した」旨を述べるところがある。

(10) 芳春は同月二一日午後七時四〇分すなに対する強盗殺人、強盗強姦未遂罪で逮捕された(該逮捕状東地三の一-一)が、同日付の山崎検察官に対する弁解録取書は「逮捕状記載の犯罪事実について弁解の余地はない」旨の供述を内容とするものであり、右逮捕状記載の犯罪事実の要旨は、金員強取の決意のもとにすなを背後から絞殺し、その後俄かに劣情を催し姦淫しようとしたが、射精が早くて未遂に終り、次いで屋内より現金三〇〇円位を強取した、というものである。

(11) 東京地方裁判所裁判官に対する同月二二日付勾留質問調書(東地二の六-二二七以下。新証拠)は、勾留請求書記載の犯罪事実(逮捕状記載の犯罪事実と同一、東地二の六-四以下)をすべて認めるものであり、さらに「事件が古いことなので細かいことで自分の想像で云つた事もある」旨を付加して述べるものである。

(12) しかし芳春は、同月二三日に至り山崎検察官に対し、「すなを殺したといつていたことは嘘である」とこれまでの自供をひるがえし、嘘の自供をなした動機については「ちよえを諦め切れず、飲んだりしてでたらめをやつているうちに事件を起して捕り、いつそうこのまま中にいた方がよいと思つてやりもしないことを自分がやつたように云つた」旨を述べ、さらに「これまでに述べてきた犯行の模様については、新聞記事や部落内の噂などをもとにして想像をまじえて作つたが、米谷の公判には一度も傍聴にいつたことはない。犯行の日には夕方六時か七時ころすな方に一度しかいつていない。」などと述べた(同日付検察官調書東地二の六-二一三以下)。

なお、芳春は前記東京地裁判決が昭和四一年五月一五日確定した後同年六月一三日本所警察署から東京拘置所に移監され、以後同署に戻ることなく同拘置所や中野刑務所において右刑や前記執行猶予の取消された刑につき服役していたものである(前記1、2(3) 、3冒頭、東地三の一-四、同一の一-三八裏参照)。

以上のとおり認められる。

(四)  右自供の任意性

1 (公判における態度)

前記第一、一のとおり検察官は昭和四二年二月二三日東京地裁に対し、芳春をすな殺害の真犯人として強盗殺人、強盗強姦未遂罪で起訴し、該起訴状(東地一の一-一以下。新証拠)記載の公訴事実は、「被告人は、一人暮しの伯母川村すな(当時五七年)が小金を蓄えているものと見込み、遊興費欲しさから同女を殺害してでもその金員を強奪しようと決意し、昭和二七年二月二五日午後九時過頃青森県東軽津郡高田村大字小舘字桜苅一六四番地の同女方に赴き、四畳半の居間で針仕事中の同女の隙を窺い、いきなり背後からマフラーをその頸部に引つかけて俯伏せに押し倒しながら絞めつけ、失神状態に陥つた同女を奥六畳の寝室に運び込んだところ同女の裾が乱れているのを見て俄かに劣情を催し、強いて同女を姦淫しようとしたが射精が早くて未遂に終り、その儘間もなく同女を右頸部絞圧によりその場で窒息死させて殺害し、次いで同屋内を物色し同女所有の現金三〇〇円位を強取したものである。」というものであつた。

しかし、関係証拠によれば、芳春は第一回公判より終始犯行を否認し、嘘の自供をした心境については、「ちよえに行かれてしまい、この世に生きていたくないという気持から、破れかぶれとなつて、どうでもよかつたからである」旨(東地一の一-九九、一六七表裏等)、また警察署の食事が少く、極度の空腹状態にあつたこともその原因の一つである旨(東地一の七-一二三ないし一二六、二四七裏二四八)を述べていたが、同人の東京地裁公判における供述の態度には、一見、投げやり、或は他人事のように振舞うところがみられ、第一一回公判においては、嘘にしても、伯母を姦淫しようとしたといつて、しかもその状況を微細な点にまでわたつて述べているのはどうしたことかなどと検察官から尋ねられるや、その理由を明らかにしようとせず、ただ「全く馬鹿らしくて話になりませんよ、自分の父親の姉にそんなことをするなんてばかな」「みんな想像ですよ、大体ばからしくて話にもならない」などと答えて、遂には裁判長からたしなめられる一幕もあつた(東地一の七-一六二ないし一七一、殊に一六六裏一六七)ことが認められる。

2 ところで芳春が、警察署の食事が少く極度の空腹状態にあつたことも嘘の自供の一因であるという点は、東京高裁証人川村雄逸の供述および芳春の東京地裁第一一回公判における供述(ただし一部)(東高二-四五八裏以下。東地一の七-一五〇以下)および前記のとおり芳春は昭和四一年六月一三日以降は本所警察署より東京拘置所等に移監され、その後は服役していて警察署には移監されていない事実(東地一の一-三八裏)などに照らして、明らかに採用し難いところ、前記自供および関係各証拠(殊に東地一の七-五五以下、八五裏以下)によれば、同人の自供は捜査官側に全く資料がなかつた状態において始められたものであり、その内容も詳細にわたりながら、しかも長期間の多数回の自供の間において絞殺の方法、姦淫行為、金員強取などの重要な諸点において変更がなく維持されていたことが認められ、右事情のほかさらに、その自供の内容(殊に犯行後の心境)、録音供述から窺われるその供述態度等に照らすと、その任意性はまことに高度のものであつたというべきである。

(五)  これを要するに、請求人および芳春の各自供の任意性の程度には格段の差が認められ、むしろ前者については任意性自体に疑念が抱かれるものであるから、請求人の自白について原決定が、任意の具体的かつ実質的程度は、長内の自供証拠と較べると低いことは否めないとしながら「請求人の自供証拠にも任意性を肯定することができる」と説示している点(原決定書一〇二丁裏)は、相当でない。

三  芳春および請求人の各自供と本件犯跡との適合性

原決定は右各自供の信用性の検討に際し、本件犯跡との適合性を比較している(原決定書七一丁以下)が、本件犯跡中、右適合性の検討において重要な点は、(1) 創傷の状況、(2) 姦淫の有無であるから、以下に右各点につき、原決定の説示の当否を検討する。

また芳春の前記自供証拠中、新証拠とされたものと、されなかつたものとの間に、本質的な内容上の差異は認められないから、右検討にあたつては、主として芳春の自供中新証拠とされた証拠のみを挙示する。

(一)  創傷の点について

原決定はすなの屍体に認められた合計八箇所の創傷中、主として両者の各自供の信用性判断につき重要と思われる頸部と大胸筋部の二箇所の創傷およびそれらの成因と関連する創傷について検討している(原決定書七二丁裏ないし八五丁裏)ので、当裁判所も以下においては、頸部と大胸筋部の二箇所の創傷を中心とし、新証拠とされた赤石第五、上野第一各鑑定書の吟味をなすこととする。

1 赤石第二鑑定書の各創傷の部位、性状についての記載によれば、

(1)  頸部の創傷は、「甲状軟骨突起部の左方約〇・五センチメートルより略水平に正中線を越えて右方に走り、正中より右方約一横指径の所より、約五・〇センチメートルの部分は、極く軽く上方に凸湾し、更に右後方に約六・五センチメートルで側頸部に終る長さ約一三・〇センチメートル、巾は正中部で約一・〇センチメートル、湾曲部で約〇・八センチメートル、側頸部で約一・〇乃至一・三センチメートルの革皮様化した帯状の表皮剥脱」というものであり、すなわち右創傷(索溝)は前頸部から右側頸部に及ぶが、左側頸部にまでは続いていないというものであること

(2)  大胸筋部の創傷は、「右大胸筋に、右第二肋骨の胸骨附着部より、その筋繊維の走向に右腋窩前極部まで長さ約一三・〇センチメートル、巾約〇・五センチメートルの線状の筋肉内出血」というものであること

(3)  また「左頸部で左鎖骨上部に右上より左下方に走る長さ約〇・五センチメートルないし約三・五センチメートル、巾約〇・一センチメートルの直線状の六本の表皮剥脱」がみられること以上のとおり認められる。

2(1)  右1(1) の頸部の創傷

イ 同創傷に関連する芳春の供述の要旨は

A 「長さ一メートル位、巾二五センチメートル位のネルのマフラーの両はじを両手に持つて輪を作るようにし、これを四畳半間の炉端に座つて針仕事中のすなの背後からいきなり頸部に掛けて、そのまま両手を交差させるように逆方向に引き、且つ同女の肩先で両手を押えつけながら力一杯絞め上げ、同女がその左側にあつた針箱の方の畳の上に突込むように俯伏せに倒れた後もなお三、四分位(あるいは、一分位、しかし絞めつけていた時間はあわせて三、四分位)後ろから覆いかぶさつて絞めつけていると同女は動かなくなつた」(昭和四一年四月八日付司法警察員調書、同年五月三一日付(B)および同年一一月一七日付各検察官調書東地二の六-一〇三裏ないし一〇五、一〇九裏、添付図面((一二一))、一九一裏、一九二、一九六表裏、一九七、二〇一)というものであり、他方請求人の供述の要旨は、

a 「左手ですなの首にしがみついた」(昭和二七年三月一七日付検察官調書東地二の二-四七〇裏)

b 「両手(両腕)を(すなの前から後に)すなの首に巻きつけた」(右検察官調書同-四六九、同月八日付司法警察員調書同-四五六)

c 「仰向けに寝ているすなの枕元の方に行き、紐の様なものをその首に掛け、後より両手で引張つた」(同月四日付司法警察員調書東地二の二-四四〇)

d 「自分の身体をすなの上に覆せて、自分の両手をのばしてすなの着衣の一番上の方の一枚の襟をとつて口のすぐ下で両方より上に絞め上げた」(昭和二七年三月四日付勾留質問調書、同月五日付、同月八日付各司法警察員調書、同月一七日付検察官調書東地二の二-四六四裏、同二の一-七六裏、同二の二-四四五裏四四六、四五一裏四五二、四五七裏、四六九裏)

というものである。

ロ そこで考察するに、原決定は結局において請求人の右各供述中原判決の認定にそう請求人の供述dの方法と芳春の供述Aの方法とを比較検討しているので、当裁判所もこれにならうことにする。

赤石第五および上野第一各鑑定書は、本件頸部の創傷に対し芳春の供述Aは適合するが、請求人の供述dは適合しないとし、その主な理由として同創傷の部位、殊にdの方法では、創傷が顎の直下に位置することとならなければならない点を指摘している。

ところで、芳春の供述Aの方法によつた場合、本件頸部の創傷が具体的に生ずる経過については、右各鑑定書は、若干相違し、赤石第五鑑定書は、ネルのマフラーでは右創傷は生じ難いが、マフラーと皮膚との間にすな着用の毛布製上張りの襟が介在したことを前提とすると極めて適合性があるとし、上野第一鑑定書は、マフラーでも、これを引き絞つた際の皮膚面との作用面が〇・八ないし一・三センチメートル前後となれば、索引による移動擦過によつて右創傷を生ずる可能性があるとする。また上野第一供述は、当審昭和四八年押第三四号(原審昭和四五年押第二三号、東京地裁昭和四二年押第六八六号、東京高裁昭和四三年押第四五四号)の符号一、二の襟巻(芳春は本件犯行に使用したマフラーを自宅裏の川に捨てた旨供述し、右襟巻二本はすなの娘祐川むつより参考物件として任意提出されたものである。同人の任意提出書、領置調書、芳春の昭和四一年五月三一日付(A)(B)および同四二年二月二一日付各検察官調書、同人および証人祐川むつの各東京地裁供述東地二の六-八五、八六、一六一表裏、一九一裏一九二、二一一以下、同一の七-一四七ないし一五〇、一五六裏、同一の六-九一ないし九三裏)のうち、符号二の方についてはその可能性は認め難いが、符号一の方には可能性が認められるというのであり(東地一の四-二三九表裏)、赤石第四供述も、マフラーによつて絶対できないとはいえない旨をいうのである(東地一の四-一六二、一九一裏)が、他方上野鑑定人は、赤石鑑定人指摘の着衣の襟(それは「毛が脱け、面が粗く、固めで、一センチメートル内外の巾に折れるようになつていた」赤石第一、第三各供述、東地二の二-三八三裏、同二の二原第二審一一二。前記第四(三)8の毛布製上張り-証第七号-の襟のことである。)がマフラーと皮膚との間に介在したことによる創傷の発生を否定しているものとは解されない(要は、索条の作用面の巾と、それの皮膚面に対する移動擦過に重点があると解されるのである。)。したがつて右各鑑定書は、芳春の供述Aによる創傷の可能性について、それぞれが最良の条件を考慮して見解を述べているのであるが、相互の見解を排斥するものでは決してないのである。

ところで右各鑑定書が本件頸部の創傷との適合性を検討するうえでの重要点として、同創傷の部位を指摘し、しかも請求人の供述d中には、明らかに「口のすぐ下で両方より上に絞め上げた」という部分があるにも拘らず、原決定は「口のすぐ下で絞めた」ということが、頸部の中央部を否定する趣旨であるとは到底受け取れないから、右各鑑定書が、同供述を不適合とすることは根拠を欠くと説示する(原決定書七七丁裏)が、右説示は請求人の右供述の趣旨を正しく把握しないもので、失当と云わざるを得ない。請求人の供述dは本件頸部の創傷の地位に照らしてむしろ不適合とみるべきである。

そして本件実況見分調書(殊に同調書添付の写真、東地二の二-四一三裏)によれば、犯行当時、すなは上半身において七枚の衣類をまとい、やや着ぶくれた状態であり、その一番上の衣類が毛布製上張りであつたこと、そして同女の頭髪は、後頸部に十分達するものであつたことが認められるところ、かかる状態のすなが針仕事中、その背後から咄嗟にマフラーをその頸部に掛け、交叉すれば、前頸部から右側頸部にかけて右毛布製上張りの右襟が、また項部の部分では、頭髪がそれぞれマフラーと皮膚との間に介在することは十分に考えられるところである。

そうすれば、芳春の供述Aによる力の加え方(なお、東京地裁証人山崎恒幸の供述東地一の七-九四裏九五、一一一表裏)からみて、きき腕側の右側頸部においてより強く擦過が生じ(上野第四供述記録三-八〇六ないし八〇七裏。なお、芳春は右ききであることにつき、東地二の七-六七裏)て本件頸部の創傷を生起し、項部の交叉部附近では頭髪が介在したり、マフラーが浮き上つたりし(赤石第六、古田各供述記録二-六四〇表裏、同四-一二二八裏)、また左側頸部ではマフラーが皮膚面と巾をもつて接触し、或はすながこれを引張る(後記参照)などして、索痕が残らなかつたことが不合理なく説明できる(赤石第一供述東地二の二-三八四表裏)。

原決定は右各鑑定書に付記された見解の根拠のないこと、或は見解に矛盾があることなどを説示する(原決定書七六丁裏ないし七九丁裏)が、本件頸部の創傷の発生についての右認定を動かすに足りない。

しかも芳春の供述Aにしたがい、マフラーによる背後からの絞頸の場合には、前記1(3) の左鎖骨上部の直線状の六本の表皮剥脱は、「すながマフラーを取ろうとして首の両側に両手をもつていき、マフラーを引張るようにした」(芳春の昭和四一年五月三一日付(B)、同年一一月一七日付各検察官調書東地二の六-一九六、二〇一表裏等)際に、その手の指の爪がマフラーを飛び越して皮膚に損傷を与えたものと考えることにより、まことによく適合する(上野第一鑑定書)のに対し、請求人の供述dによれば、すなの前方から襟絞めしたというのであるから、この場合には、右表皮剥脱の位置が、本件頸部の創傷を左側頸部に延長した線より遙かに下方であることに照らして、その成因を説明することがまことに困難となる(上野第一、第三各鑑定書)。

この点について、原決定は、「襟絞めの攻撃が着手後直ちに完全有効に成立し、これが被害者の抵抗喪失時点までそのまま維持されるということは、常になされ得るものとは考え難い」と説示する(原決定書七九丁表裏。吉田鑑定書も、すなが絞められている左襟の下に自分の左手の指を入れて左下方に引張ろうとすることによつて左鎖骨上部の表皮剥脱を生ずる可能性があるとする。)が、しかし老婆の襟を掴み、上に絞め上げている若者の力をおしのけて襟の下に指をさし込む力は、いかに必死とはいえ老婆に残つているとは考え難い(上野第三鑑定書。この点において古田供述記録四-一一八九、一二一〇裏ないし一二一二は採用できない。)ばかりでなく、請求人の供述を仔細に検討しても、「すなは絞めている私の手を払いのけるようにして両手を私の手のあたりに掛けて身体や足をもがくように動かしていた」旨(昭和二七年三月八日付司法警察員調書、同月一七日付検察官調書東地二の二-四五八、同-四七〇)を供述するにとどまり、すなが襟の下に自分の手の指を入れて下方に(指先が鎖骨上部に達するほどに)引張つたという事実を窺わせるところは全くないのである。

これを要するに本件頸部の創傷に関し、芳春の供述は適合するが、請求人の供述は適合しないとした赤石第五および上野第一各鑑定書の結論は十分に首肯できるものである。

(2)  前記1(2) の右大胸筋部の創傷

イ 同創傷に関連する芳春の供述の要旨は、前記2(1) イ記載のとおりであり、他方請求人の供述の要旨は

e 「坐りながらすなの右胸(または胸の真中)の辺りを右手拳で(余り強くなく)一回どんと突いたら、同女ははずみを喰つて後の方に横に(または請求人の左横へ仰向けに)転んだ」(昭和二七年三月四日付、同月五日付、同月八日付各司法警察員調書、同月一七日付検察官調書東地二の二-四三八、四四四裏四五六、四六九)

f 「(すなは顔を炬燵の方に向けて横に転んでいたので自分はその場でやる積りで)上から覆いかぶさつて仰向けになつたすなを動かないようにした」(昭和二七年三月五日付、同月八日付各司法警察員調書、同月一七日付検察官調書東地二の二-四四五、四五六、四六九)

g 「すなを障子際の布団が敷いてあつたところに仰向けに寝せたが(叫ばれたり騒がれたりすると困ると思つて)自分の体をすなの上にかぶせた」(昭和二七年三月五日付、同月八日付各司法警察員調書、同月一七日付検察官調書東地二の二-四四五裏、四五七裏、四六九裏)

h 「すなの陰部に自分の陰茎を入れて同女の体に覆いかぶさつた」(昭和二七年三月四日付司法警察員調書、同月一七日付検察官調書東地二の二-四三九表裏、四七〇裏)

というものである。

ロ そこで検討するに、赤石第五および上野第一各鑑定書は、本件右大胸筋部の創傷に対し、芳春の供述A後段は適合するが、請求人の供述eないしhは不適合或はやや不適合というべきであるとし、その主な理由として、兇器は、少くとも約一三センチメートルの長さを有する直線的稜角のある鈍体(赤石第五鑑定書)、または細長の作用面とかなりの硬度をもつ鈍体(上野第一鑑定書)とみるべきである旨を指摘する。

ただ、右各鑑定書は、芳春がすなを針箱の方の畳の上に俯伏せに倒した際に、針箱の稜角がすなの右大胸筋部に衝突したことを前提とする点において同一であるが、赤石第五鑑定書は、「すなが右肩を前に出るようにして倒れたとした場合」を、上野第一鑑定書は「芳春の供述は左側に倒したというが、これは記憶違いの可能性が大きく、むしろ右側に倒したとした場合」をそれぞれ最良の条件として考慮するものである。

しかし芳春の供述A後段によれば、当時四畳半間で針仕事中のすなが左側に突込むようにして倒れた後も、なお後ろから覆いかぶさつて絞めつけていた、というのであるから、右絞めつけの最中に針箱の稜角がすなの右大胸筋部に強く押しつけられることは十分考えられることであり、右各鑑定書が、その際における創傷の発生を否定する趣旨でないことは明らかである。

そして本件実況見分調書によれば、犯行当時、すなは、その上半身に、本ネル肌着、コツトン肌着、長襦袢、真綿胴着、絣上張り、毛糸胴着、毛布製上張りを着用していたことが認められるから、請求人の供述eでは不適合或はやや不適合というべきであり(赤石第五および上野第一各鑑定書)、またf、g、hにいう請求人の前腕あたりの圧迫によるという点は、前腕の有する作用面の巾、硬度という点で不適合というべきである(上野第一鑑定書、右に反する古田鑑定書は採用できない。)。

しかるに原決定は、本件右大胸筋部の創傷が針箱との衝突によるとすることは、芳春の供述に現われていない情況を想定し、或はその供述を思いちがいとみる仮定を置くものであるとして赤石第五および上野第一各鑑定書の見解を排斥する(原決定書八四丁裏。なお、赤石第五鑑定書が本件右大胸筋部の創傷の成因に関し、赤石第二鑑定書の見解を変更したのは理由が乏しいとする原決定の非難((原決定書八三丁裏以下))は、赤石第四供述を正解しないものであつて、首肯できない。東地一の四-二一七裏二一八、なお同-一五七裏ないし一六〇、一七七表裏、一七九ないし一八〇裏、一八九等)。

しかし、関係各証拠を検討すれば、芳春の供述A後段にいうごとく、すなを針箱の方の畳の上に倒した状況において、針箱がすなの胸部の下に位置することを、単なる想定などとして排斥すべきではなく、十分可能性のあることとして肯認すべきである。すなわち関係各証拠によれば、

(イ) 本件犯行当時のころ、すなが日常使用していたと認められる木製の針箱(当審、原審、東京地裁、東京高裁前各同押号の四、本件実況見分調書添付の写真、川村芳男作成の任意提出書、領置調書、東京地裁証人川村芳男の供述東地二の二-四一〇裏、同二の六-八九、九〇、東地一の六-一六〇裏ないし一六二裏。右針箱は、厚さ〇・七センチメートルの板で作られた、蓋の部分は縦二四・三センチメートル、横一八・二センチメートル、高さ六・八センチメートル、本体の部分は縦二二・五センチメートル、横一六・五センチメートル、高さ六・四センチメートルの長方形のものである。)は、犯行の翌日(二月二六日)警察官による本件実況見分時において、すな方玄関から入つたすぐの四畳半間に、蓋が取られて、本体の底に裏側から重ねられた状態で置かれてあつたほか、その付近に靴下、ストツキング、モンペなどがまとめられてあつたこと(本件実況見分調書)

(ロ) 本件実況見分時における右針箱の位置は、右四畳半間内の炬燵の位置から離れているが、すなは普段、針箱を炬燵の側においているのみでなく、同女の死亡が発見された直後、多数の縁者や部落の者が同室内に入り、その者達の中には、針箱が炬燵の近くにあつたことを認め、また同室内の状況は右見分時前にかなり変更を加えられたと供述する者がいること(長内義昭の昭和二七年二月二七日付、同月二八日付、長内石藏の同日付各司法警察員調書、川村芳男の同年三月二〇日付、宮崎コヨの同日付、長内ツゲの同月二一日付各検察官調書、原第一審証人穐元武夫、東京地裁証人森内盛治郎、同間山仁太郎、同鹿内卯市の各供述東地二の五-一三一、同二の三-一五表裏、同二の五-五五裏、五六、同二の四-七五表裏、同二の五-一〇二裏、七九東地二の一-二六〇裏、同一の三-六裏、一六八、一七二表裏、東地一の七-一二、二四表裏、二五裏、三六裏四五裏、四六等。なお、長内ツゲの昭和二七年二月二八日付司法警察員調書東地二の五-七二裏ないし七四によると、同女が二六日の午前一〇時ころすな方に巡査とともに来たときは、縁者や部落の者など八名いたことが認められる。また本件実況見分調書が、すなの屍体発見直後の状況を正確に記載していないことは、穐元武夫の昭和二七年二月二八日付司法警察員調書東地二の五-一〇六にみられる台所のストーブ付近に置かれてあつたみかんのむいた皮若干((みかんはすなの解剖所見の胃の内容物である。赤石第二鑑定書))、女用足袋一足などについて全く記載のないことからも窺われる。)

(ハ) 前記2(1) イ掲記の芳春の各供述調書によれば、すなは右四畳半間の炬燵(右各供述は「炉端」と表現)に坐り針仕事をしていたというのであるから、同女のかたわらに針箱が置かれてあつたとみるのが自然であること(本件実況見分調書および添付の写真によつて認められる電灯の位置も炬燵の傍である。)

などの事情が認められるのであつて、以上の事情に照らせば、前記の可能性は到底否定できないところというべきである。

これを要するに本件右大胸筋部の創傷については、芳春の供述は請求人のそれよりも各証拠により適合するという赤石第五および上野第一各鑑定書の見解は、針箱との衝突をその成因とする結論において十分是認できるところである。

3 しかるに原決定が、結局すなの頸部および右大胸筋部の各創傷について、芳春および請求人の供述する加害方法は、絶対的とはいえないにしても、高度の蓋然性をもつて不適合とは断じえないと判断するにとどまつた(原決定書八五丁表)のは、結局、証拠の評価を誤つたものというべきである。

(二)  姦淫の点について

1 赤石第二、第三各鑑定書および本件実況見分調書によれば、すなの着衣や屍体下腹部等に精液が付着していたこと(前記第一、一参照)、また犯行現場に精液以外の分泌物が付着した折鶴模様の日本手拭(前記二(一)2および4末段参照)が置かれてあつたことが認められるところ、姦淫および事後の処置に関する芳春および請求人の各供述をみると、まず芳春の供述の要旨は

B 「自分の陰茎がすなの陰部に触つたときに急に気分が出て射精してしまつた。精液はすなの陰部の中や臍の方に流れ出た」(昭和四一年四月八日付司法警察員調書、同年五月三一日付(A)検察官調書東地二の六-一〇六、同-一四七裏)

C 「すなの首からマフラーを外して、それで同女の陰部の辺についた精液を拭いた後、その付近の畳の上にあつた日本手拭をとつて、それで陰部や精液がついたところを拭き、さらに右手拭を長さ一寸位に丸めるようにして陰部の中に差し込んで拭きとつてから、それをその辺に置いた」(前同各捜査官調書東地二の六-一〇六、同-一四七裏一四八)

というものである(原決定は芳春の供述として、「そのとき入れたことは入れたと思うが、精液まで入れたか入れないか、それはわからない」という部分と、「中にも精液が入つたと思つた」という部分を挙示して芳春の膣内射精の可能性を認めている((原決定書八六丁裏八八丁裏))。しかし前者は芳春の録音供述中テープ第五巻の一部((東地二の八-一六四裏六行目ないし八行目))、後者は同第六巻の一部((東地二の九-一八裏四行目))であると解されるところ、右各供述の前後をみれば、前者は膣内射精の有無はわからないという趣旨をいつていることは明らかであり、後者は、必ずしも膣内射精の事実を述べているとは解されない((東地二の九-一八裏五行目ないし九行目)))。

他方、請求人の供述の要旨は

i 「自分の陰茎をすなの陰部に挿入して、抜差ししているうちに気分が出て膣内に射精した(昭和二七年三月四日付、同月五日付、同月八日付各司法警察員調書、同月一七日付検察官調書東地二の二-四三九表裏、四四七、四五九裏、四七一)

j 「やつてからすぐ付近にあつた布切れの様なもので自分の陰茎を拭いた。その布切れは布団の何処かにかくしたが、何処か記憶にない」(昭和二七年三月四日付、同月五日付各司法警察員調書、同月一七日付検察官調書東地二の二-四三九裏、四四七裏四四八、四七一表裏)

というものである(なお、原決定は請求人の供述として「二、三回抜けた時も気分が出てたらしてあつたような記憶がある」という部分((昭和二七年三月五日付司法警察員調書東地二の二-四四七以下))を挙示して、膣外射精の可能性を認めている((原決定書八七丁八八丁裏))が、右供述の前後の内容に照らせば、膣内射精の点は明確であるが、膣外射精の点は不明とみるべきである。)。

2(1)  そこで検討するに、赤石第五および上野第一各鑑定書は、本件姦淫の犯跡に対し、芳春の供述B、Cは適合するが、請求人の供述ijは不適合であるとし、その主な理由として、すなの屍体所見からは膣内射精の事実はなかつたとみるべきであり、また日本手拭の状態は、芳春の供述Cに微妙に適合するのに対し、請求人の供述jにいう布切れは、現場所在の物件中に見出すことができないことを指摘するものであり、右鑑定結果は十分に首肯できる(因に、芳春の血液型は、前記本件遺留精液斑のそれと同じく、A型である。菊池鑑定書)。原判決も姦淫既遂の起訴に対し、これを認定していない。

(2)  しかるに原決定はまず右各鑑定書が、芳春について膣内射精、請求人について膣外射精の可能性を考慮していないことを非難するが(原決定書八八丁裏八九丁表)、前記1のとおり、芳春については膣外射精の認識は明確であるが、膣内射精の認識は不確かであり、請求人については膣内射精の明確な認識を供述しているのであるから、原決定の非難は失当である。

(3)  また原決定は、赤石鑑定人が膣内容を採取する以前に荻原医師が膣内容を採取した事実があるから、右各鑑定書がすなの膣内容から精子が証明できなかつた一事をもつて、膣内射精を否定したことは行き過ぎであると説示する(原決定書八八丁ないし九〇丁)。

しかし赤石鑑定人がすなの屍体解剖をなす以前に荻原清澄医師が綿球三、四箇を膣内に挿入してその内容物を採取した事実は証拠上認められるが(原第一審証人荻原清澄、東京地裁証人工藤良男の各供述東地二の一-二四八裏、二四九、同一の二-一九九。しかし右綿球の鑑識結果は不明。右荻原清澄、工藤良男の各供述東地二の一-二四九表裏、同一の二-二〇〇)、同医師の右綿球による採取によつて、完全に膣内容が取り去られなかつたことは、右屍体解剖の結果に照らして明確な事実であり(上野第三鑑定書五〇頁、東京地裁証人工藤良男、同荻原清澄の各供述および赤石第四供述東地一の二-二三二裏、同一の三-五八、七六表裏、七七、同一の四-二〇六参照)、赤石第五および上野第一各鑑定書もすなの屍体解剖の時点(昭和二七年二月二七日午後二時三五分より午後六時四五分まで)においてその膣上部に汚灰白色の粘液少許が認められ、その中に精子が認められなかつた事実(赤石第二鑑定書)に基づいて、請求人(有精子者であることにつき上野第三鑑定書)の膣内射精の供述を不適合と判断しているのであり、右判断は首肯できるものである。その他原決定が、精子が発見されなかつたことをもつて膣内射精の事実を否定することは行き過ぎであるとして掲げる諸々の理由(原決定書八八丁表裏)は、上野第三鑑定書、上野第五供述(記録六-一八五五表裏、一八五六)に照らしてすべて是認できない。

(4)  さらに、姦淫の事後の処置に関し、赤石第五および上野第一各鑑定書が、芳春の供述Cにいうごとく、同人がまずマフラーですなの陰部を拭いたため、精液が全部拭きとられていたことが考えられるから、その後さらに同部位を拭いた日本手拭に精液が付着していなくても矛盾がないとする点(日本手拭に精子が認められなかつたことにつき赤石第三鑑定書参照)について、原決定は、証拠上すなの屍体の外陰部にかなりの精液が付着していたことが認められるから、マフラーですつかり拭きとつたとはいえないことは明瞭であるとして、同部位を拭いたとする日本手拭に精液の付着が認められないことは、芳春の供述の不適合を示すという(原決定書八九丁表裏)が、右判断は必ずしも前記各鑑定書の見解を否定するに足りるものとは認め難い(なお、日本手拭には五箇所に血液型B型の汚黄色の乾燥せる精液以外の分泌物が付着して、その乾燥に伴うと考えられる皺がのこつており、またすなの血液型はB型で屍体検案の際同女の膣内からおり物が採取されたことが認められるところ、かかる状況に対し、日本手拭に関する芳春の供述Cは、微妙に符合すると解される。この点につき、赤石第二、第三、第五各鑑定書、原第一審証人荻原清澄、東京地裁証人工藤良男の各供述東地二の一-六三裏、二四八裏、二四九、同一の二-二四二裏、二四三)。

3 これを要するに、赤石第五および上野第一各鑑定書の本件姦淫の犯跡に関する前記芳春の供述の適合性についての見解は、十分是認できるものであるから、「芳春の供述の方が請求人のそれより多少適合度が高いとは云えるかも知れないが、程度の差でしかなく、この点についての右各鑑定書の判定をそのまま是認することはできない」とする原決定の判断(原決定書八九丁裏)は、失当である。

(三)  さらに原決定は、1すなの死亡時刻、2金員強取の有無、3すなの着衣はく脱その他の情況などの諸点につき、芳春および請求人の各自供の適合性を検討しているから、右の各点につき以下に判断する。

1 死亡時刻の点について

原決定はすなの食後死亡時までの経過時間を大体二、三時間とする上野第一鑑定書(新証拠)および上野第一、赤石第二各供述などにより、すなは午後五時三〇分ころ食事を終え、午後六時三〇分ころ殺害されたものと認められ、右死亡時刻は請求人の自供と符合するという(原決定書九三丁表以下、九七丁裏)が、原決定の挙示する証拠によつては右死亡時刻の認定は困難である。

2 金員強取の点について

原決定は、金員の強取を肯定する芳春の供述と、これを否定する請求人の供述とを比較し、請求人の供述は証拠により認められる客観的事実と矛盾しないが、芳春の供述は右事実に符合しないとする(原決定書九七丁裏以下)。

しかし金員強取の点は、請求人に対する公訴事実(強姦致死、殺人)中に含まれておらず、原判決もこれを認定していないのに対し(前記第四(一)、(二)参照)、芳春に対する公訴事実(強盗殺人、強盗強姦未遂)中には現金約三〇〇円の強取が含まれているが(前記二(四)1参照)、右被害事実そのものが証拠上容易に確定し難いのであつて、このような事実関係のもとにおいて、金員強取に関し相反する前記各供述と客観的事実との適合性を比較検討することは、ほとんど不可能であるばかりでなく、無意味である。

3 すなの着衣はく脱、その他の情況

原決定は、すなの着衣はく脱その他犯行前後の情況などに関する請求人と芳春の各自供を検討しているが(原決定書九八丁裏以下)、これらの点は両者の信用性を大きく左右するとは考えられない。

四  芳春および請求人の各自供の信用性

原決定は、

(一)  請求人の自供について、右自供が事実に符合しない加害方法(絞頸方法、大胸筋内出血の原因行為等)があるほか、犯行時刻、犯意の発生時点、犯行の細部の態様、犯行時およびその前後の被害者の具体的言動、帰宅時刻等ほとんど自供の全般にわたり供述内容が変動していること(この点につき前記二(一)4(1) ないし(6) 参照)、その供述内容には捜査官の想定の範囲を越え、犯人でなければ分らないと思われる事項について言及したところが極めて乏しいこと、捜査官の誘導によるとみられる供述部分もあることを肯定しながら、

1 請求人は逮捕された日の二日後に自供をしていること

2 請求人逮捕のきつかけとなつた現場で発見された折鶴模様の日本手拭については、その後捜査官は右手拭が被害者のものではないかとの判断を持つに至つたものであるが、請求人自身は捜査官に対しそれ以前から右手拭が自己のものでないことを明確に主張していること

3 捜査官は、請求人が右犯行自白の当初捜査官に対し廊下に手をつき号泣して謝罪した旨証言し(東京地裁証人工藤良男の供述東地一の二-二〇九)、請求人自身も積極的にこれを否定していないこと(請求人の東京地裁供述東地一の三-二三〇、記録五-一四五六裏、一四五七)

4 請求人は捜査官に真相を弁明することをあきらめ、公判廷でこれをしようと考えて自白したというが、その後の捜査段階で否認し、公判廷でも格別の防禦をしていないこと

5 請求人は仮釈後も日本弁護士連合会に対し本件再審請求をなすための援助を要請するまでの間において、自己の無実を明らかにしようとする積極的な言動を示したことがなかつたこと

などを根拠として、請求人の自供の信用性を否定し難いとし(原決定書一〇二丁裏以下)

(二)  他方芳春の自供については、本件発生十数年後の供述であるのに事実に適合する個所が多いとしながらも

1 芳春の自供には意図的な創作部分が多く含まれているとみられること

2 芳春が事件発見直後の段階で被害者の近親者として犯行現場に赴き、請求人の逮捕後その共犯者の嫌疑を受け取調を受けたこともあり、芳春は本件について同部落の者の中でもとくに多くの情報を入手しえた立場にあつたこと

3 芳春が自供をなすに至つた動機は、同人が当時拘禁生活中であり、自供により直ちに実質的な苦痛を受ける立場になかつたことに関係があると考えられること

のほか、遺留精液斑の鑑定結果、共同墓地からの目撃者の供述内容および請求人の供述の信用性とを考え合わせると、芳春の自供はすべて無責任な虚構のものであると断定している(原決定書一〇七丁以下)。

(三)  思うに、原判決およびこれを支持した原第二審判決が、請求人の捜査官に対する自供につき全体としての信用性を肯定していることは明らかであり、関係記録により認められる当時の証拠資料を前提とする限り、右判断は首肯できるものである。

しかしその後真犯人とされる芳春の自供などの新証拠が提出された本件において、更に両者の自供の信用性を検討すると

1 何よりもまず芳春の自供は、任意性に全く欠けるところがないばかりでなく、その内容は犯行そのものについては勿論、その前後の事情に関する部分をも含め、詳細にして具体的であり、十数年以前の犯行をあたかも最近の事件であるかのように、「その場の光景を眼前にするかのような印象を受けるほどの鮮明さ」(原決定書一〇七丁裏、一〇八丁表)を有し、すな方居宅および付近の詳細な図面二通(東地二-二-一七四、一七五)をも作成するなど迫真性を十分に備えた供述ということができる。

2 しかも芳春は当時身柄拘束中であつたとはいえ、自発的に捜査官に対して自白した後、起訴の直前までの一〇か月以上の長期間にわたり自供を維持し、事件直後捜査官の取調を受けたころには否認していた態度をひるがえして自白を決意するに至つた動機についても、「親兄弟や別れた妻とか世間等に対する反感や恨みから虚偽の自供をしたものではなく、良心の苛責を免れ罪の償をしたいという気持」による旨を明確に述べているのであり(昭和四一年一一月一七日付検察官調書((新証拠))東地二の六-一九九裏以下)、素直な気持の表現とみることが可能である。

3 芳春は、起訴直前の昭和四二年二月二三日検察官に対し自白を撤回し、「二度目の女房ちよえに逃げられ、郷里に帰つて再三ちよえを連れ戻そうとしたが果さず、諦め切れないで飲酒などしているうちに事件を起して逮捕され、一層のことこのまま刑務所にいた方がよいと思つて虚偽の自白をしたのであり、犯行の模様は、新聞記事や部落内の噂などに想像を交えた作り話である」旨供述するのであるが(同二一四裏、二一六)、前記のような迫真性をもつ自供を撤回する動機としては余りにも不自然であるのみならず、この点に関する芳春の法廷供述も理由にならないような弁解を付加するほかは、全く右同様の内容を繰り返えすのみである(前記二(四)1、2参照)。

4 前記のように、芳春の自供が、犯行の重要部分である絞頸方法および姦淫の点について犯跡に適合し、請求人の自供は適合しないとの鑑定がなされ(赤石第五、上野第一各鑑定書)、右鑑定結果が是認できるのであるから、このことは芳春の自供が単なる記憶ないし想像による虚構なものと断じ難いものであることの証左であるとともに(芳春は、前記のように検察官に対し自白を撤回しながらも、自白当時の「事件が起つた晩には午後六時か六時半ころに家を出てすな方に五分か一〇分位いて帰つた。そのころすな方の隣の墓地に墓参りに来た柴田の家の者に会つた」旨の供述((昭和四二年二月二一日付検察官調書東地二の六-二〇九、昭和四一年四月八日付、同年五月一四日付各司法警察員調書、同月三一日付各検察官調書(A)(B)同-一〇一、一〇二、一一〇表裏、一二五、一二六、一五五ないし一五七、一九一ないし一九三裏))を維持し((前同二一五裏、二一六、二一八裏))、右供述は、事件当日午後六時過ころ墓参のため共同墓地にきて午後七時ころに右墓地を出たとする前記柴田武良らの供述と一部符合することも、芳春の自供の信用性を高めるものということができる。)、他方、請求人の自供は、大筋において一貫性を有する芳春の自供と比較して、前記のように、犯行時刻、犯意の発生時点、犯行の細部の態様、犯行時における被害者の言動などほとんど自供の全般にわたり供述が変動し際立つた対照を示しているばかりでなく、請求人の自供のうちには、膣内射精(原判決および芳春に対する起訴状はいずれも強姦自体は未遂とする。)、紐様のものによる絞頸など明らかに事実と異なる供述を含んでいるのであり、また共同墓地内からの犯人目撃の能否に関する新証拠の東京高裁検証調書により犯行直後に請求人を目撃したとされる者の供述に疑問が生じ、遺留精液斑に関する新証拠の上野第二、山沢第一各鑑定書により請求人が犯人でないことの可能性が認められることも請求人の自供の信用性を動揺させる事由ということができるのである。

5 したがつて、犯人と請求人とを結ぶ最有力な証拠が請求人の自白であるとされてきた本件において、新証拠の芳春の自供の信用性を否定しさることはできず、他方これまで信用性を肯定されてきた請求人の自供の信用性に動揺ないし低下がみられ、原決定が前者を否定し後者を肯定すべきものとして示した事由はすべて根拠が薄弱であつて首肯し難いものであるから、芳春の自供は、「原判決の事実認定につき合理的な疑いを抱かせ、その認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠」としてその明白性を肯定するのが相当である。

第九芳春に対する起訴状

検察官は芳春を本件の真犯人と断定し、昭和四二年二月二三日同人を強盗殺人、強盗強姦未遂の罪名のもとに東京地方裁判所に起訴し(前記第八、二(四)1参照)、その起訴状(東地一の一-一以下)が新証拠とされている(新証拠1)。

原決定は、右起訴状について、検察官の起訴行為を立証するものとしては最良の証拠というべきではあるが、起訴状に記載の公訴事実(その内容につき前記二、(四)1参照)の関係では、これが検察官の判断を表示したものにすぎないから、公訴事実に対して何らの証拠価値を有するものではない、として明白性を否定した(原決定書一一〇丁)。

しかし既に述べたように、本件については、芳春の自供その他の関係証拠により、同人が本件の真犯人であつて、請求人は犯人ではない疑いが濃厚であるばかりでなく、検察当局も芳春を本件の真犯人と断定して(東京地裁証人山崎恒幸の供述東地一の七-一〇二裏以下、一〇六表裏)、同人を起訴し、更に同人に対する一審の無罪判決に対しては、控訴を申立て事実誤認を理由として強く争つていることが認められ(東地一の七-二九七、東高一-一一以下)るのであり、このような事実関係のもとにおいては、芳春に対する本件起訴状は、請求人に対する有罪の心証を動揺させる一資料ということができるから、これを単なる検察官の判断の表示として明白性を否定した原決定の判断は失当である。

第一〇結論

以上のとおり本件各新証拠は結局、芳春の自供を中心としていずれも刑訴法四三五条六号所定の新規性および明白性を具備し、本件再審請求を認容するのが相当と認められるから、明白性を否定し右請求を排斥した原決定は取消を免れない。論旨は理由がある。

よつて刑訴法四二六条二項、四三八条、四四八条一項を適用して原決定を取消し、本件について原判決をした青森地方裁判所において再審を開始すべきものとして、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 菅間英男 裁判官 林田益太郎 裁判官 鈴木健嗣朗)

図<省略>

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